アートって難しいと、思っていませんか?
この記事では、末永幸歩(すえなが ゆきほ)さんの「13歳からのアート思考」という本を紹介します。タイトルに“13歳から”とある理由は、多くの人が美術に対して苦手意識をもつ分岐点が、小学校〜中学校に進むタイミングだからです。
小学校までは自由に絵を描いていた子も、中学校に入って絵を描く技術や正確な知識を求められるようになった途端に、興味を失う人も少なくありません。
「美術の本質は、自分なりの物の見方を掘り下げる“アート思考”にあり、たった1つの正解を求めるものではない」
ということが、この本のテーマです。この記事が、あなたなりのアートの見方が見つかるきっかけになると嬉しいです!
1. モネの睡蓮にいるカエルを見つけられるか?
最初に、美術館に来たつもりで、上の絵を鑑賞してみてください。
解説文:
1883年以来、パリから数十キロ程セーヌ河を下った小村ジヴェルニーで制作していたモネは、1893年、新たに屋敷の前の土地を購入し、やがてそこに日本風の庭園を造成する。
敷地内を流れる小川を利用して、睡蓮を浮かべた大きな池が掘られ、太鼓橋が架けられ、岸辺には柳や灌木が植えられた。
外界とは隔絶されたこの水の世界に隠遁しながら、モネは、「睡蓮」の連作に没頭していく。
庭の隅にガラス張りの大きなアトリエを建て、自由に移動できるように車をつけたイーゼルを立てて、朝から夕方まで、時とともに移り変わる池の様子、水面の反映と鮮やかな花の美しさを捉えようと試みたのである。
ーー 引用:国立西洋美術館
さて、あなたは絵を見ていた時間と、解説文を読んでいた時間、どちらが長かったですか?
おそらく、ほとんどの人が、解説文に多く目を向けていたはずです。このように、実際に美術館を訪れても、作品を観るのはせいぜい数秒で、すぐに作品の解説などを読んで、何となく納得したような気になってしまっていないでしょうか?これでは見えるはずのものも見えませんし、感じられるはずのものも感じられません。
ここで、1つエピソード。岡山県にある大原美術館で4歳の男の子が、モネの睡蓮を指さして、「カエルがいる!」と言ったそうです。みなさんは、先ほどの絵の中にカエルを発見できましたか?
実は、カエルは描かれていません。それどころか、モネの作品群である睡蓮の中にはカエルが描かれたものは、一枚もないです。
その場にいた学芸員は、この絵の中にカエルがいないことは当然知っていたはずですが、「えっ、どこにいるの?」と聞き返すと、その男の子はこう答えます。
「いま、水に潜っている。」
著者は、これこそが本来の意味での“アート鑑賞”だと言います。その男の子は作品名や解説文といった、既存の情報に正解を見つけませんでした。むしろ、自分だけのモノの見方でその作品を捉え、彼なりの答えを手に入れています。
あなたは彼の答えを、皆さんはどう感じましたか?
くだらない、子供じみていると思いましたか?
ピカソは、こんな名言を残しています。
「子どもは誰もがアーティストである、しかし大人になった時そうでい続けられない。」
みなさんは、どう感じたでしょうか?
2. アートという植物が面白いのは根っこ
ここから、本書のタイトルにある、“アート思考”とはどんなものなのか。それを知るために、“アートという植物”について、みていきましょう。
ここで、また1つ質問です。いまから5秒間で、できるだけ完璧な「タンポポ」の姿を思い描いてみてください。
いかがでしょうか。きっと、地面から顔を出した鮮やかな黄色の花を思い浮かべたのではないでしょうか?
しかしそれは、タンポポのほんの一部に過ぎません。もう少し想像膨らませて、地面の中をのぞいてみると、地中にはタンポポの根が伸びています。ものによっては、1mにも及ぶそうです。
また、別の角度でタンポポをみると、花を咲かせている期間は1年間のうちたった1週間程度です。あなたが思い浮かべた、黄色いタンポポは、様々に姿を変える植物のほんの一瞬。
空間的にも時間的にも、タンポポという植物の大半を占めているのは、実は目に見えない地中の部分なのです。アートというのは、まさにこのタンポポに似ているのです。
ここからさらに、やや抽象的な話をします。アート作品そのものを、地表部分に顔を出す“表現の花”としましょう。この花の根元には、“興味の種”があり、そこから四方八方に無数の根が生えています。何の脈絡もなく広がっているように見えるが、地中深くのどこか1点に繋がっている、これを“探求の根”と言うことにします。この“探求の根”は、アート作品が生み出されるまでの、長い過程を示しています。
アートという植物はタンポポと同じく、大部分を占めるのは目に見える“表現の花”ではなく、地表に顔を出さない“探求の根”の部分。アートにとって本質的なのは、作品が生み出されるまでの過程です。
花に焦点を当ててアート作品を見ても、「よくわからない、きれい、すごい」としか言えないのは、その裏にある“探求の根”を意識できていないからです。
どんなに上手に絵が描けたとしても、斬新なデザインを生み出すことができても、それは花の部分で、深い根がなければ、その花はすぐに枯れてしまいます。“表現の花” = 作品そのものだけでは、本当の意味でのアートとは呼べないのです。
3. アートという植物の生態を知ろう!
アートという植物の生態を、もう少し詳しくみていきましょう。この植物が養分にするのは、自分自身の内部に眠る、興味や好奇心、疑問です。アートという植物は、この“興味の種”からすべてが始まります。
ここから根が出てくるまでは、何年、何ヶ月もかかることがあります。また、アート活動を突き動かすのは自分自身で、他人が定めたゴールに向かって進むわけではありません。地下世界でじっくりとその根を伸ばしている間にも、地上では他の人たちが次々ときれいな花を咲かせていきます。
しかし、アートという植物は、地上の流行・批評・環境変化など全く気にしません。
そして不思議なことに、何の脈絡もなく生えていた根たちは、ある時どこかで1つにつながります。まるで、事前に計画されていたかのように。
そうしてつながった瞬間、誰も予期していなかったようなタイミングで、開花します。これが、アートという植物の生態。この植物を育てることに一生を費やす人こそが、アーティストなのです。
とはいえ、アーティストは花を咲かせることにそれほど興味を持っていません。アートという植物にとって、花は単なる結果でしかないことを知っているからです。
4. 花職人は真のアーティストにはなれない
世の中にはアーティストとして生きる人がいる一方、種や根のない花だけを作る人たちがいます。彼らを“花職人”と呼ぶことにしましょう。
花職人がアーティストと決定的に違うのは、気づかないうちに他人が定めたゴールに向かって手を動かしているという点です。彼らは先人が生み出した花づくりの技術や、花の知識を得るために長い期間にわたって訓練を受けます。
花職人の中には立派な花を作り上げたことで、高い評価を受ける人もいます。
しかし、どんなに成功した花であっても、似たような花をより早く、精密に作り出す別の花職人が現れるのは時間の問題です。そうなったとき、既存の花づくりの知識や技術しかもたない彼らには、打つ手がありません。
しかし、誰しもが最初から花職人になることを志しているわけではありません。一度は自分の興味から“探求の根”を伸ばそうと踏み出したものの、道半ばで花職人に転向する人も多くいます。
なぜなら、根を伸ばすには相当な時間と労力が必要だからです。これをやっておけば花が咲く、という確証もありません。
アーティストと花職人は、花を生み出しているという点で、外見的にはよく似ていますが、本質的には全く異なっています。
“興味の種”を自分の中に見つけ、“探求の根”をじっくりと伸ばし、ある時に独自の“表現の花”を咲かせる人、それが正真正銘のアーティストです。
粘り強く根を伸ばして花を咲かせた人は、季節が変わって一度地上から姿を消すことになっても、何度でも新しい花を咲かせることができるのです。
5. アートは人類が美と格闘してきた歴史
19世紀までの500年間は、宗教の布教のためや貴族の肖像画のために、いかにリアルに描くかというのが美術のゴールでした。しかし、それを一変させる出来事がありました。
カメラの登場です。
これにより、写真が絵画に取って代わり、リアルに描く必要はなくなりました。当時、“絵画は死んだ”と言われるほどの衝撃が、芸術世界にもたらされたのです。
本書では、人々のアートに対する考え方を変えた、20世紀のアート史を考察をするための6つの作品を解説しています。そして、この6作品を知ることで、20世紀の美の格闘、固定概念からの解放の歴史をざっくり知ることができます。
多くの人は、この“20世紀の格闘の歴史”を教わり損なったために、「アート、わけわかんない!」になっている人が多いのです。そのため、落書きみたいな、ピカソの絵の何がすごいのか理解できません。
まさに、ピカソを始めとする20世紀の芸術家たちが、芸術にはまだやれることがある!と奮闘した歴史は、教科書で見た作品の表層では捉えることができないのです。
以下、作品のラインナップになります。
- アンリ・マティス:緑の筋のあるマティス婦人の肖像
- パブロ・ピカソ:アビニヨンの娘たち
- ワシリー・カンディンスキー:コンポジションⅦ
- マルセル・デュシャン:泉
- ジャクソン・ポロック:ナンバー1A
- アンディ・ウォーホル:ブリロボックス
それぞれが、今までのアートを固定観念から解放した、歴史的作品です。ひとつずつ、詳しくみていきましょう。
6. 妻の顔を緑で塗る男、アンリ・マティス
まずは、アンリ・マティス(1869年1 – 1954年)が1905年に発表した「緑の筋のあるマティス婦人の肖像」です。自分の奥さんの肖像画の鼻に、緑の筋を描き、さらに顔の左半分と右半分で塗り方が全く違う作品です。
「何て適当で雑な絵!」
と思うかもしれませんが、当初はみなさんと同様に世間から酷評を受けます。ところが、マティスがやりたかった事 = 根っこを知ると納得できます。
それは、「目に映るそのままの色でなくてもよくない?」という主張です。子どもは太陽を青く描いたり、海を赤く書いたりしたら先生に、「海は青いのよ!赤くないのよ!」と、きっと怒られますよね?
マティスはこの500年続いた、「目に見える色を、忠実に描く」という芸術の鉄則を破りました。違う色で塗っているだけじゃん!と思う方もいるかもしれませんが、元々美術の素養があったマティスが、この作品を堂々と世に発表することが新しかったのです。
歴史の分岐点というのは、その時点では曖昧で見えにくいものですが、振り返ると「あの時、マティスが変えた!」と再評価されています。
7. 画面に情報を詰め込んじゃう男、パブロ・ピカソ
続いては、みなさんご存知、ピカソ(1881年 – 1973年)です。ピカソの代表作は、この「アビニヨンの娘たち (1907年)」です。顔は左向いているのに、鼻は右向いていて、肌の色はピンクかと思えば茶色。
一見して、ピカソ!と分かる作品です。
これも何でこんな描き方をしたのか、その根っこの部分を見てみましょう。実はこの絵、多視点からみたものを、再構成してギュッと並べたものです(キュビズムと言います)。
1つ分かりやすい例を挙げると、サイコロの絵をリアルに描くとき、裏側の面はどうしても描けないですよね。
遠近法で立体に描いても3面くらいしか描けないサイコロで、サイコロの全部を説明できているのかな?というのが、ピカソからの問いです。
他の方法としては、サイコロの展開図を描くというやり方もあります。その展開図をギュッとした絵が、ピカソの絵(キュビズム)だと思ってください。
リアルよりも多くの情報で説明できないか?
ということにピカソは挑戦したのです。
ちなみに、ピカソは生涯もっとも作品を残したアーティストとしても有名で、その数なんと15万点。91歳まで生きていたので、平均しても1日4〜5作品制作していることになります。
まさに、呼吸するように描き続けたんですね。
8. 音楽も絵にしてしまおう!カンディンスキー
ピカソのキュビズムやられたら、もう絵画に挑戦することないんじゃない?と思いきや、ワシリー・カンディンスキー(1866年 – 1944年)の登場です。
彼は1913年に、コンポジションⅦ(コンポジションナンバーセブン)という絵を発表します。豊かな色が散りばめられ、線や丸が描かれているこの絵は、なんと音楽を作品にしたものです。
具体的な物ではなく、目には見えない抽象表現の登場です。それまで絵画には、りんごやライオンといった、必ずモチーフが目に見えるかたちで存在していました。
しかし、カンディンスキーは音楽への造詣も深かったので、曲の構成(コンポジション)を絵として表現することに挑戦したのです。
カンディンスキーの作品を代表とした、この時代の一連のロシア構成主義は一世を風靡しました。
9. コンセプシャル・アートの祖!マルセル・デュシャン
具体も抽象も描ききったアートの世界に、いよいよ登場するのがマルセル・デュシャン(1887年 – 1968年)です。
彼の1917年発表の作品が、「泉」です。
はい、ただの便器です。それにサインが書かれているだけ。ぶっ飛んでますね。
デュシャンはこれを、偽名を使って自身が運営する展覧会に出展します。しかし、この作品は選定委員全員からものすごいバッシングを受けて、展示されることはありませんでした。
そこで、デュシャンはこの作品の写真に撮って、展示されなかった作品群としてアート雑誌に載せます。
そこから、こんな表現方法があり得たのか!と話題になります。しかも、展示されなかったことも物議を醸し、これはアートなのか?アートじゃないのか?という大事件になります。
これが、今でも続く現代アートの表現技法の1つ、コンセプシャルアート(概念の芸術)のはじまりです。
デュシャンは、“アートは美しさを表現する”という固定観念を取り払うために、あえて大抵の人が美しいと思わない便器(既製品=レディメイド)を選び、“これもアートである!”と見立て、アートとは何か?と考える人々の「脳=観念」を芸術として表現したのです。
既製品に美を見出すのは、日用品を茶器と見立てた千利休と通じるものがあります。
10. 無意識すら表現してしまう!ジャクソン・ポロック
自ら手を加えない表現まで出て、いよいよ煮詰まったと思われるアート界。その間をかいくぐるかのように登場するのが、ジャクソン・ポロック(1912年 – 1956年)です。
ポロックの作品は、アート・オークションで過去最高額で落札されたこともある非常に人気の高い作品です。その特徴としては、床にキャンバスを置いて、絵の具を無軌道に散らしまくる“ドリップ・ペインティング”があります。
これまでは、便器にしろ、音楽にしろ抽象的なモチーフで表現してきましたが、その時に“あること”忘れているとポロックは言います。それは、絵画が“キャンパスに絵具が付着したもの”ということです。
確かに、鉛筆で描かれたリンゴをみて、「これは、黒鉛です。」と答える人は、万に一人もいませんよね?
“何かを描いても、何も描かない”。これを実行したのが、ポロックです。何か適当に描いても、例えばニョロニョロの線だけ描いても、「これはヘビですか?」という感じに、何かに見えてしまうものです。
一方で、絵具で何とも言い難い画面を絶妙に作り出すのが、ポロックのすごさです。意識的に描かないということを突きつけたアーティスト、それがジャクソン・ポロックです。
11. アートに境界線はあるのか? アンディ・ウォーホル
ついに、無意識まで作品にしてしまいましたね。もう表現はやり尽くした、そんな中でも人は新たな表現を見つけてしまいます。第二次大戦を挟んで、ポロック以降はアートの中心はパリからニューヨークへと変わります。そこで生まれた大量消費社会、これを作品にしたのが、アンディ・ウォーホル(1928年 – 1987年)です。
まず余談ですが、彼の銀髪はカツラです。
1964年、ウォーホルはブリロ・ボックスという作品を発表します。箱にポップな絵柄。実はこれ、当時のアメリカでは誰もが知る食器洗いパッドの箱です。それを、木の箱で模したものを作品として発表したのです。
このほか彼はシルクスクリーンという印刷技法で、マリリン・モンローやスープ缶といった誰もが知るものを大量にプリントし、展示会に出展しました。
ここで問題です。以下の4つの中から、アートであるものとアートでないものを選んでください。
- a モナリザ
- b ダビデ像
- c ノートルダム大聖堂
- d 日清のカップラーメン
これらを、アートとアートでないものに分けようとした時に、大半の人はノートルダム大聖堂まではアートに含めますが、カップラーメンは違うんじゃない?という回答をします。
a〜cは1点もののアートと言えるが、大量生産で市販されているものをアートとは言えない。そんな先入観を持っている人もいるかもしれません。
しかし、ウォーホルは、洗剤にしろスープ缶にしろ、モノに何かを印刷して、メッセージとして発信されていることそれだけでアートとは言えないのか?と問いかけます。
もちろん発表当時は、そんなものがアートなはずないだろ!と酷評されます。
そこから、“アートとアートではないものに、境目はない”というウォーホルの考えは多くの物議を醸し、アートの固定観念を見直すきっかけとなりました。この社会の反応こそが、ウォーホルのやりたかったことなのかもしれません。
作者が伝えたいメッセージや価値観は何か?
それに自分なりの解釈や答えを導き出すことが、“アート思考”の入り口です。
アートは金にならないとか、意味ないなどと侮ることなかれ。
アートの鑑賞や理解を通して“アート思考”を養うことで、自分なりに“こんなやり方もあるんじゃない?”とか、当たり前だと思っているものに、“絶対じゃないよね?”と言えるようになります。
“アート思考”は生活や仕事における様々な場面で、多面的で柔軟な思考を手に入れることができる素晴らしいものです。さっそく次の週末は、どこかのギャラリーや美術館に出かけてみましょう!
この記事を読んで興味を持った方は、ぜひ本書、末永幸歩(すえなが ゆきほ)さんの「13歳からのアート思考」も読んでみてください!
末永幸歩(すえなが ゆきほ)
美術教師、東京学芸大学個人研究員、アーティスト。
東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部卒。東京学芸大学大学院教育学研究科(美術教育)修了。
東京学芸大学個人研究員として美術教育の研究に励む一方、中学・高校の美術教師として教壇に立ってきた。子ども向けのアートワークショップ「ひろば100」を企画・開催。
著書に『「自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考』。