《ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作 (1953)》画像引用:https://francis-bacon.com
激しく絶叫する教皇。これを見ると不安や恐怖、焦燥感を感じませんか?
この絵画の作者は、フランシス・ベーコン(Francis Bacon)。20世紀における最も重要な肖像画家の一人です。大胆な筆づかいで生々しく過激なモチーフを描き、単に暴力的な表現をとしているのではなく、暴力的に機能する作品をつくろうと試みることで、鑑賞者に「生」を感じさせようとします。
ベーコンは、20代初めから作画し始めますが、30代半ばまで不安定な活動を続け、芸術家としてのキャリアはほぼありませんでした。絵描きとしての自信がなかった若き日のべーコンは、教養としての知識やグルメ、ギャンブル、インテリアデザインなど、興味の赴くままに世の中をさまよっていました。
この記事では、 “連続性”や“時間”といったことをキーワードに、ベーコンの本質とも言える“身体を肉として表現すること”への飽くなき探求の道のりを解説していきます。ベーコンの何がすごいのか、きっと分かりますよ!
1. 幼少期の移動生活と女装癖
フランシス・ベーコン(1909年~1992年)は、アイルランド生まれのイギリス人画家です。父のエディは威厳のある軍人かつ競馬馬のトレーナーで、男らしさを追求する人物。母のウィニフィは、石炭業や製鉄業で富を得た父を持つ、富豪家庭の女性相続人でした。
幼きベーコン少年は、このような上流階級の家庭環境で、幼少期を過ごすことになります。また、仕事の関係でベーコン一家は引越しが多く、第一次世界大戦とも重なるこの時期に、アイルランドとイギリスを何度も往復しています。
ベーコンには、兄のハーレイ、2人の妹のウィ二フィとアンシー、弟のエドワードがいましたが、家族の中で最も仲が良かったのは、乳母のジェシー・ライトフットでした。ライトフットは、のちのベーコンの作画モデルとしても有名で、しばしば母親像のように描かれています。ベーコンにとって、彼女はいつでも唯一の味方でした。
この頃、恥ずかしがり屋であったベーコンですが、他方で女装癖がありました。一家の仮装パーティでは、口紅をつけ、ハイヒールを履き、手には長いタバコ棒を持ち、モダンな女性の女装をしてはしゃいでいたそうです。
この癖は父親を困惑させ、怒りを買います。ベーコンは女装癖が原因で、家族から孤立していまいます。その数年後、父エディは母親の下着を身に着けて、悦に浸るベーコンが姿を目撃し、怒りはついに頂点に。ベーコンを勘当し、家から追放しました。
2. ロンドン、ベルリン、パリ
1926年後半、父に勘当された17歳のベーコンは、ロンドンで一人暮らしを始めます。この頃のベーコンは、母から毎週3ポンドの仕送りをもらいながら生活し、主にニーチェの書籍を読んで過ごしていたそうです。また、生活は極貧だったので、家賃を払う前にアパートを逃げ出したり、窃盗行為をしたりして過ごしていました。
その後、ロンドンの暗黒街に出入りし始め、特定の富裕層の客を相手にして過ごすようになります。ベーコンはグルメの知識をはじめ、育ちのいい趣味や知識が、ある種の男性を惹きつけました。両親から醜いと罵倒されながら育ったベーコンでしたが、暗黒街では人気者に。
“かわいい”とさえ思ってくれる人がたくさんいることに気づき、同性愛の世界に入り込んでいきました。こうして人見知りだったベーコンは、社交術、生活術を身につけていくことになります。
一方で、ベーコンのことを気にかけた両親は、叔父のハーコート・スミスに、教育目的でベルリン旅行に同行させるよう頼みます。しかし、ハーコートはバイセクシャルであったため、ベーコンの客に。これを機に、ハーコートとともにベルリンへ移り住むこととなります。そこでベーコンは「メトロポリス」や「戦艦ポチョムキン」といった映画と出会い、これらの作品はベーコンに多大な影響を与えています。
また、ベルリンで2ヶ月間ほど生活した後にハーコートと別れ、半年ほどパリで過ごした際、シャンティイ通りで見たニコラス・プッシーニの絵画《幼児虐殺》からも影響を受けます。これは後の「叫ぶ教皇」シリーズの源泉も言える作品で、ベーコンはこの頃から“叫び”に取り憑かれるようになります。
3. 制作初期の挫折と第二次世界大戦
1928年後半〜1929年初頭、20歳の頃にベーコンはロンドンへ戻り、インテリアデザイナーとしての仕事を始めます。またベーコンはこの頃、ドーバー・ストリートのバスプールで電話番をしている時に、後のパトロンであり愛人のエリック・ホールと出会っています。同年冬、ベーコンは初の個展を開催します。ベーコンは、ラグのデザインを応用したような作品や家具を出展しました。
そんなインテリアの仕事をする傍ら、1933年に制作した《磔》は大衆から注目を集めた最初の作品で、パブロ・ピカソの《3人の踊り子 (1925)》を基とした作品でした。しかし、これが大きく評価されることはなく、黒歴史として封印してしまいます。ベーコンは以後10年弱、絵画の制作を放棄することになります。
第二次世界大戦が開戦すると、ベーコンは民間の防衛会社での勤務を志願し、レスキュー・サービスとして働き始めます。生存者の救出や、遺体の捜索の仕事をしていたそうです。この大戦でのナチス・ドイツ軍のイギリスへの空爆は、ベーコンに大きな影響を与えます。
ロンドン大空襲から逃れるように、郊外で愛人のエリック・ホールと過ごす中、《車から抜け出す人(1939-1940)》を描きますが、これはのちの《キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)》に描かれた、生命体のルーツにあたります。
4. キリスト磔刑図を基盤とした3つの人物画の習作(3つの習作)
ベーコンは、1944年に制作した「3つの習作(トリプティック)」で、画家としての地位を確立し始め、自信も取り戻します。本作は、ギリシア神話に登場する復讐の三女神エリーニュス、もしくは古代ギリシャの「オレステイア」で登場する復讐の三女神を基に制作されています。
また、このトリプティック(3連作)には、後の作品につながるエッセンスがいくつも詰まっています。バイオモルフィック(生物的)な形態や、骨から自由になった身体としての「肉」、叫び、三幅対のフォーマット。自らの完成作をも「習作」と呼ぶベーコンのストイックな姿勢、礫刑図というキリスト教絵画からの主題の借用などです。
本作のオレンジ色の背景に、“擬人化した鳥”にも見える謎の生命体が3体は、首を伸ばし、歯をむき出しにして描かれています。この謎の生命体は、のちにデビッド・リンチ監督作品の映画「イレイザー・ヘッド」や、H.R.ギーガー監督による映画「エイリアン」に影響を与えました。ベーコンは3体の生命体について「人間の造形に近く、かつ徹底的に歪曲された有機体」と語っています。
また、ベーコンは本作以前に描いた作品のことを良く思っていなかったため、マーケットに流通させないように、破壊した作品も多数あります。ベーコンはこの3連作をもって“自身の画業の始まり”だと位置づけています。
本作は1945年にロンドンで初披露され、美術界に瞬く間にセンセーションを巻き起こしました。1971年に、美術批評家のジョン・ラッセルは「3つの習作」の美術的意義について、「「3つの習作」以前のイギリス絵画と、それ以後を混同することはできない」と語っています。
1946年制作の《絵画(1946年)》を売却後、ベーコンは売上を元手にしてモンテカルロに別荘を建設。乳母のライトフットとエリック・ホールとともに、そこから数年の大半をそこで作品を制作しながら過ごし、時折ロンドンへ出張するという生活をします。
ただし、この頃に描かれた作品の多くは、ベーコン本人によって破壊されており現存していません。またこの時代、アルベルト・ジャコメッティや生涯の友人となるイザベル・ニコラスらと知り合います。
5. 1950年代のベーコン
ベーコンは1950年代に入ってからも、1944年の「3つの習作」に詰め込んだいくつものエッセンスの個別の検証を続けていました。例えば、《ふたりの人物 (1953) 》ではふたりの人物が溶け合って肉となりつつあります。フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、ベーコン作品におけるこうした身体を、「異なった水準の諸感覚の絡み合いから、絡み合わされた形体が生み出された結果」だと表現しました。
ベーコンは、哀しみや憎しみ、愛情といった名づけが行われる以前の情動や、「力」と呼ばれるものが、身体にどのような変化を与えるのかを検証していたのです。
これと結びつくのが、《映画「戦艦ポチョムキン」の乳母のための習作 (1957)》も示すような、叫びへの関心です。「叫びそのものを描きたい」と常々語っていたベーコンは、人間は怖いから叫ぶのではなくて、叫ぶから怖くなる、つまり叫びは「力」に貫かれることで生まれるのだということをよく理解していました。
そのほか、この頃にベーコンが生涯通い続けた芸術サロン「コロニー・ルーム」ができます。ここは、ソーホーのプライベートのサロンで、「ミュージック・ボックス」というクラブとして午前2時半まで通常営業を行なったあとに、午前3時〜11時までを「コロニー・ルーム」として会員制で営業していました。
ベーコンは初期からの会員。半ば店員のような立ち位置だった彼は、週に10ポンドを支払う代わりに、知人、友人である富裕層や著名人を店へ招くことで、自由に飲むことができたそうです。
実際、ベーコンの甲斐もあり、「コロニー・ルーム」は芸術エリートたちが集うサロンへと発展し、画家のルシアン・フロイド、俳優のピーター・オトゥール、歌手のジョージ・メリーなど多くの芸術家たちが集まりました。
ベーコンの死後も、ダミアン・ハーストをはじめとしたYBA(ヤング・ブリティッシュ・アーティスト)など若手芸術家の聖地となっていましたが、2008年に閉店しました。
6. 最愛の愛人ジョージ・ダイアー
1964年、ベーコンが55歳の時、最愛の愛人であるジョージ・ダイアーと巡り逢います。そのきっかけは、ベーコンのアパートへの泥棒。盗みに失敗し、ベーコンと鉢合わせてしまったジョージを一目見た瞬間に気に入ったベーコンは、警察に突き出す代わりにベッドに誘ったそうです。当時ジョージは30歳でしたが、その日を境にベーコンの絵のモデル兼愛人になります。
この頃から、ベーコンの描く主題は友人の肖像へと移行していきます。中でもダイアーは中心的な主題でした。一方でダイアーはというと、ベーコンが描く絵と自分自分を不可分と感じるようになり、アイデンティティやレーゾンデートル(存在意義)とさえ感じはじめていました。ベーコンはそんなダイアーを《生と死の間の短い間奏》に描きます。
しかしその後、見ず知らずの社交会に突然放り込まれたダイアーは、周囲からの好奇の視線と嘲笑に耐えられなくなり、アルコール依存症に。そして、1971年のパリで開かれたベーコンの回顧展のオープニング当日、ホテルで睡眠薬を大量に飲んで自殺してしまいます。
この事件により、外見上はストイックに見えたベーコンでしたが、内面は壊れていきます。ベーコンは多くの批評家たちにこの内面を打ち明けませんでしたが、後に友人たちにこの時のことを「悪魔、災難、喪失」と話しています。
深い悲しみから2年後、ベーコンはたくさんのダイアーの単作の肖像画や三連画を描きます。この時の有名な作品に《黒の三連》があります。
7. 晩年のベーコンと後世への影響
ベーコンの作風は1960年代に入ると、身体は「人と動物の間の識別不可能な地帯」へと入り込み、「肉と骨との絵画的緊張」(いずれもドゥルーズ)が作品を律するようになります。また、60〜70年代にかけて、背景は簡素化し、檻状の構造と衝立のようなパネルと溶けゆく肉とが、まるである種の舞台のように、時間の推移をも孕む空間構成として表現されるようになります。
70年代終わりから80年代にかけては、自らの作品からの引用が増え、マンネリズムに陥ったとの批判もされますが、晩年には黒とキャンバスの地と図になる、彼岸と此岸の行き来を想起させるリリカルな作風に到達します。
持病の喘息に生涯苦しめられたベーコンは、1992年マドリードを旅行中に、病に伏せて病院に入院。その後、心肺停止で死去してしまいます。ベーコン死後の1998年、イギリス・ダブリンにあるヒューレーン・ギャラリーのディレクターは、混沌とした彼のスタジオを当時のまま保存し、そのスタジオを丸ごとギャラリー内に再現しました。
再現スタジオは2001年に一般公開され、カタログ化もされています。100枚のキャンバス、約570冊の書籍、1,300枚の本の切り抜き、1,500枚の写真、2,000個の絵具など画材、7,000枚のドローイング、そのほかに雑誌、新聞、アナログレコードなどがスタジオ内に散乱した状態になっています。本や雑誌や切り抜きは、空手や柔道の本からのものも見つかっています。
そこから垣間見えるのは、身体を肉として表現することへの飽くなき関心。ベーコンは、単に暴力を表象として描こうとしていたのではなく、暴力的に機能する作品をつくろうとしていました。そうすることで、観る者に「生」を痛烈に感じさせよう試み、この美学はダミアン・ハーストなどイギリスのアーティストにもきちんと引き継がれています。
また、ベーコンは現実世界に潜む事実、世界は曖昧であり、それは意味となる以前の情動や力によって満たされているということを、なんとかして絵画という形に置き換えようとしていましたが、そうしたリアリズムは今日のリュック・タイマンやピーター・ドイグ、奈良美智といった画家たちへと引き継がれています。
ベーコンがのちの絵画に与えた影響は計り知れず、かつ1930年〜1940年代に描いた作品や1990年代後半の作品の大部分は破棄され、現存するものが少ないこともあり、オークションでは高値を付けられる傾向にあります。
2013年11月にサザビーズのオークションで、《ルシアン・フロイドの3つの習作 (1969)》が、1億4200万ドルという当時のオークション史上最高値で落札されたことは、彼の作品の根強い人気と影響力を物語っています。