画像引用:https://www.takaishiigallery.com/
白衣とマスクに身を包み、銀座の路面を丹念に清掃する集団。
1964年10月、東京オリンピックが開催されていた東京・銀座の並木通りで、一風変わった清掃活動が行われました。
彼らのこの行動は、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3人で結成された「ハイレッド・センター」というアーティストグループの《首都圏清掃整理促進運動》という名のパフォーマンスでした。
このグループの実働期間はわずか1年余りでしたが、メンバーがそれぞれが異なる芸術領域に進んで行くことになる稀有な共同体でした。
この記事では、そんなハイレッド・センターについて、時代の背景を交えながら解説していきます。
1960年代がどんな時代であったか、想像しながらぜひ読んでみてください!
1. ハイレッド・センターとは?
ハイレッド・センターは、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之の3人によって1963年に結成された日本の前衛芸術集団。名前の由来は、3人の苗字の頭文字(高=ハイ、赤=レッド、中=センター)で、彼らのシンボルは鮮やかな赤いビックリマーク「!」。
日常の場面で目立つような過激なイベントを展開することで知られていました。3人の他にも和泉達、刀根康尚、小杉武久らがその活動に参加することもありました。
活動は1963年3月に開催された、「読売アンデパンダン展(無審査の展覧会)」で作品を出展したことから始まりますが、「ハイレッド・センター」という名が初めて公にされたのは1963年に行われた「第5次ミキサー計画」においてです。
なお、その前年に行われた、見る人を引き付けるような奇妙な化粧をして、駅のホームや車内で突発的に実行された「山手線事件」という“ハプニング”からすでに、活動は始まっていました。
そもそも、ハイレッド・センターの結成のきっかけとなったのは、この事件を総括する座談会が芸術誌の『形象』の誌面で行われたことにありました。
2. 退屈な日常をかき混ぜる!
ハイレッド・センターという名前自体は、メンバーの名前の羅列に過ぎないため、具体的な意味や主張を伴わないです。しかし、あたかもこの名が前衛的な芸術集団ではなく、一法人であるかのような装いを帯びているのは、この集団が社会に対して公共性を偽装しながらも介入していくことを志向していたためでした。
彼らは、日常に芸術を持ち込むことで、退屈な日常を撹拌(かき混ぜる)するという意図を持っていました。
優れた文学者でもある赤瀬川原平の軽妙な筆致で書かれた「東京ミキサー計画」(1984年)によって、そのユニークなグループの活動はさらに知られるところですが、ハイレッド・センターを、単に「反芸術」と呼ぶべき時代の雰囲気にとどめて理解してはいけません。
グループとしての一貫した主張があるわけではなく、例えば、赤瀬川の模造千円札や梱包、高松次郎の無限に続くかのような紐、中西夏之の増殖する洗濯バサミといったように、グループ結成直後の展覧会「第5次ミキサー計画」などを見てみると、作家各々の関心に従って制作された作品が、たまたまグループショーで一堂に会しただけのようにも見えます。
しかし、例えば《ロプロジー》や《ドロッピング・イベント》は明らかにジャクソン・ボロックのドリップ絵画の再解釈であり、同時に、都市空間という公共圏に対する批判的介入でもあります。
また、帝国ホテルに招待客を呼び寄せた《シェルター計画》では、今日のリレーショナル・アートの先取りでもあり、展覧会期中、画廊を閉鎖=梱包するという「大パノラマ」は、ホワイト・キュープに象徴されるような「美術」の制度批判の先駆けでもありました。
3. 「千円札裁判」が問いかけるもの
注目すべきは、そうした試みが臨界点を迎えた「千円札裁判」です。
これは、赤瀬川が制作した模造千円札が通貨偽造として起訴された事件で、芸術内部での「反芸術」の可能性と、美術と社会の軋轢を示す重要な問題を投げかけました。
この事件は、彼らがマスメディアや都市空間といった現代性に対して意識的であったこと、そしてその批評性がハイレッド・センターの作品の本質にあることを示しています。
赤瀬川が制作した千円札を模した作品が違法であるか否かが争われることになったが、これ自体がハイレッド・センター的な「イヴェント」であったと考えられます。
そして、銀座並木通りの街路を清掃し続ける《首都圏清掃整理促進運動》は、美術の公共圏への介入の初期的な例であると評価できます。
いずれにせよ、ハイレッド・センターの活動は、今日なお用評価すべき点が多々見受けられます。そして、このような活動は、先行する「読売アンデパンダン展」で展開された「反芸術」的動向の、ひとつの成果であったとも評せるでしょう。
4. 彗星のごとき活動の軌跡
ハイレッド・センターが、このような軋轢を含む美術と公共圏との接点を設定し得たのは、雑誌、テレビなどを含む、マスメディアの現代性と、それと密接に関わりあう都市空間に対して彼ら(特に赤瀬川)が意識的であったが故であり、その点にこそ、ハイレッド・センターの作品および行為の批評性が所在しています。
そして、《首都圏清掃整理促進運動》以後、赤瀬川はサブカルチャーや文学へ、高松はイメージや事物に対する現象学的な探求へ、中西は絵画の内在的な可能性の実践へ、それぞれ異なる表現領域を切り開いて行くことに。
公共への批判的な介入をもって、アートの枠組みそのものを問いただすかのような前衛的な活動を展開していたハイレッド・センターですが、1964年10月の《首都圏清掃整理促進運動》を最後に、わずか1年5ヶ月でその活動を終了することとなりました。
ハイレッド・センターという集合体が稀有であるのは、たった1年少しの実働期間しかないながらも、互いにまったく異なる芸術思想を持った作家たちが集う、ゆるやかながらも実り多き共同体であったことでしょう。その活動は不穏さを湛えており、都市をも巻き込みつつ芸術の状況を文字通り撹拌(ミキサー)したのです。
以上で、ハイレッド・センターの解説を終わります。
誰もが夢の生活に憧れ、疑いなく突き進んだ高度経済成長期の社会において、公共性を偽装しながら介入するウィットに富んだ活動は、低成長・成熟社会を迎えるいまの日本でどう再解釈するべきか。いまの視点から見つめてみるのも面白いかもしれません。