いま目にしているモノは、本当に存在しますか?
この記事では、難解哲学で知られるエトムント・フッサールの現象学について解説します。
例えば、目の前に赤いリンゴがあるとして、それは本当に存在していると言えますか?
変なことを聞いていますが、もしあなたの意識が映画マトリックスの世界のように、“水槽の中に浮いている脳”が刺激を受けているだけだとしたら…。
そうではない証明はできるでしょうか?
そんな一見バカげたことを大真面目に考え抜いたのが、今回紹介するフッサールです。
難しい用語も登場しますが、できるだけ分かりやすく解説するので、ぜひ最後まで読んでみてください!
1. 現象学の祖、フッサール
エトムント・フッサール(1859 – 1938)は、オーストリアのプロスニッツ出身。両親はユダヤ系商人で、裕福な家庭で育ちました。
大学入学後は当初、数学を専攻していましたが、その後哲学に転向。「算術の哲学」という心理学をベースとした著作の出版などもしています。
しかしそこから一転、心理学を批判する立場をとり、40歳頃には「現象学」の思想を打ち出します。現象学については、後ほど詳しく解説します。
60歳になると、助手に後の大哲学者・ハイデガーを迎え、彼を後継者として育てます。しかし、ハイデガーが「存在と時間」という書籍を出版すると、その内容が自分の思想と乖離していることに気づき、両者は決別。
フッサール自体はそれほど有名にはなりませんでしたが、彼の思想は、ハイデガーはもちろんのこと、サルトルやメルロ・ポンティといった、哲学界に名を残すスターたちに引き継がれています。
フッサールといえば、現象学
フッサールといえば、現象学。
1900年頃に発表されたその概念は、過去の哲学を否定しながら進化を続けてきた西洋哲学において、現在も完璧に否定をされることなく、研究が続いています。これは非常に稀なことです。
現象学とは、簡単に言えば「目の前の現象が、一体どういう構造の下で成立するか」を解明する学問です。
現象学の中身に入る前にまず、なぜ現象学が登場したのか、その時代背景を確認しておきます。
19世紀後半~20世紀前半において、西洋科学技術が急激に発展を遂げていたのは、自明のこと。
それに伴い世の中がすごいスピードで便利になっていき、人類が何かに向かってまい進している空気感がありました。
そんな中、その発達自体に危機感を覚える人たちがいました…。
2. そもそも、科学は本当に正しいのか?
そもそも、科学は本当に正しいのでしょうか?
もし正しくないのなら、いまの発展は正しくない方向へ進み続けていて、危険なのではないか?
あらゆる真理探求には、その大前提としてそれが正しいのかの確認は常に付きもの。もし科学がその大前提を間違えたまま発展しているとしたら、大変なこととになってしまう。
じゃあ何が間違っていて、何が正しいというのか?
科学側からは、疑問を投げかけられます。
それにフッサールは、こう答えます。
「それを考える学問が必要だ!」
それが、現象学だったのです。
諸学問も現象学で記述できるか
ちょっと解釈は違うかもしれませんが、誰もが“1+1=2”だと知っていますよね。
でもなぜそうなるのかと聞かれたら、そうだからとしか答えられない人がほとんどではないでしょうか?
実際、1+1を厳密に説明するためには、「ペアノの公理」というかなり回りくどい証明が必要になります。
その公理ですら、何でそれを信じられるのかと聞かれると、また答えに窮します。
このような科学や数学をはじめとする、諸学問も現象学(意識の立場)から記述できるようにしようと、フッサールは考えたのです。
3. 客観的な世界像、自然的態度
人間は普段生きていると、目の前にあるものを自分の意識とは独立して存在していると認識しています。
いま画面を見ているデバイスは、自分が意識しているから存在するのではなく、見ていない時も、寝ている時も、忘れている時も、確かにこの世の中に存在していると思いますよね。
現象学では、この考えを自然的態度と呼びます。
そして、フッサールはまず、この自然的態度を捨てること主張します。
目の前にあるものについて、とりあえずいったん判断停止。
そこにモノがあるという客観的な世界像を、脇に置くのです。
りんごは、まず赤い
例えば、りんごが目の前にある、まずりんごがあって、それを見てりんごだと認識している自分がいて、りんごについて“赤い”や“丸い”といった感想を抱きます。
しかし、りんごがあるというプロセスをいったん脇に置くと、“赤い”や“丸い”といった体験が先行し、その結果として“りんご”という対象を認識し、意識の上に立ち上がります。
現象学では、この例での“赤い”や“丸い”といった直接的な体験を“現出”と呼び、その体験から推論して現れる結果、“りんご”のことを“現出者”と呼びます。
また現象学では、このような認識に対する対応を「超越論的態度」と言い、まずりんごが存在しているといった自然的態度を超越論的態度へと、思考の変換をすることを「超越論的還元」と言います。
主観的な意識体験を疑う
このプロセスは、カントの有名な「コペルニクス的転回」に似ています。
ただし、現象学がカントの思想と明確に違う部分は、「認識の転回をし、認識できた結果が世界であり、その手前のもの自体は、人間には理解できない」とカントが言ったのに対し、フッサールは「意識体験が本当にあるかは分からない。
理解できるかできないかに関わらず、認識(現象者)が現れるそのちょっと前の状態」を研究することが、大事だと言っています。
これを研究して解き明かすことが出来れば、科学や数学がなぜ現実の認識として現れ、それが成立しているのかを、現象学的立場から説明することができると考えたのです。
4. ノエマとノエシス
現象学において、人間の意識は必ず“ある対象”に向けられ、これを「志向性」と呼びます。
そして、超越論的還元後の志向された対象を「ノエマ(志向対象)」、体験から推論し、認識として立ち上がるプロセスのことを「ノエシス(志向作用)」と呼びました。
フッサールは、このノエシスこそが、認識におけるすべての原点であると考えたのです。
ここでデカルトを参照すると、デカルトは「コギト(我思う、故に我あり)」という概念を唱え、自分という意識そのものは疑う余地のない絶対的な出発点とし、学問のスタート地点と考えます。
その次にデカルトは確実なものとして、五感をあげています。
視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。これらの感覚も、疑いようがないとしました。
認識に至る作用プロセスに注目する
簡単に言うとフッサールは、この認識する主観的な意識体験と、その材料となる体験を生み出す五感の両者の関係性に着目したのです。
デカルトのように両者を揺るぎないものとして前提にするなら、体験から認識に至る作用プロセスにこそ、すべての基本・原則となるものが眠っているに違いない。
ノエシスの研究によって、科学や数学なども、現象学の立場から再度記述することができるはずだと考えたのです。
人間がノエシスを介して、世界を理解していることについては、フッサールの時間と空間に対する捉え方を見ていくと、少しわかりやすいかも知れません。
5. 時間と空間について
フッサールは物体だけでなく、時間と空間についても、超越論的プロセスを介して認識していると考えました。
時間について
例えば、あなたが「太郎君は、アメリカに行きました」という文章を聞いているとします。「アメリカに」までを聞いた時、あなたは太郎君がアメリカに行くような気がしています。
それはなぜかというと、ちょっと前に聞いた「太郎君は」という文節を覚えていて、今聴いている「アメリカに」という文節を結びつけて理解をし、たぶんこの後に「行きました」と続くと予想しているからです。
過去に聞いた「太郎君」がなければ、その後に続く文の意味が理解できないですし、「アメリカに」に続いて「ニャー!」とか言われたら、もっと意味分かんないですよね。
このように、過去の体験から保持しているものを「過去把持的現出」、いま体験しているものを「現印象的現出」、未来に対してあらかじめ期待されるものを「未来予持的現出」と言います。
そしてそれらの現出を複合して推論することで、文章の意味が理解できるのと同時に、“今”という時間の概念も理解できるようになるとフッサールは考えました。
空間について
例えば目の前の机の上に、閉じたノートパソコンがあるとします。それを、しゃがんだ水平の位置から見ているとします。
当然、線に近い薄いパソコンの姿が目に映っているはず。
しかし、だんだんと視点を変えて目線を高くしていくと、次の瞬間にはパソコンが台形に見えるようになっていき、真上まで目線を持っていけば、長方形のノートパソコンが目に映るはずです。
現象学では時間と同じように、しゃがんでいた位置、中腰の位置、真上からと、ノートパソコンを見下ろす位置によって前後の姿が推論されることで、“今の場所にある”という認識が生まれていると考えます。
時間も空間も、これらのプロセスを抽象化したり、無限に引き延ばしたりすることによって、私たちが感じているような、客観的な認識ができるようになっていると考察したのです。
また、一度その処理が行われ、客観的な時間と空間の認識が完了すると、その過程自体は無意識の中に隠れてしまうと、フッサールは主張しました。
私たちは、時間は過去から未来に向かって常に一定に流れ、それは自分がいなくても、また空間についても同じだと考えがちです。
しかし、現象学の立場からすると、そう感じているのは自然的態度だからであり、超越論的還元によって厳密にノエシスを見ていくと、それはそう認識するようなプロセスが、過去にあったからだと言うのです。
また、この解釈は現象学的に言う「判断停止」によってもたらされます。
6. 判断停止(エポケー)とは
ノエシスについて研究するためには、自然的態度を破棄し、超越論的還元によって新しい認識を得る必要があります。
そのためには「判断停止(エポケー)」が必要なのですが、現象学解説に待ち構える難関なので、極論を交ながら、何とか解説していきます。
現象学の立場から言えば、自然的態度は先入観の塊。普通に生きていたら、自然的態度から脱却することができません。
例えば、コペルニクスが現れるまでは、地球は自転していないと考えられていました。
自然的態度においては、天動説という知識と実際に太陽が動いている景色から、地球は止まっていると判断され、誰もが地球は止まっていると信じていました。
しかし、地動説が浸透してからは、太陽が同じように動いているのを見て、地動説の知識と合わせて推論することで、地球が回っていると判断するようになりました。
このように人間が絶対に正しいと思っている物事には、必ず先入観が隠されていて、それによって大きな誤りを犯すのです。
そのため、先入観を外してものを見ないといけないですが、仮に先入観を外したとしても、その状態が、先入観が外れた状態だと誰が証明できるでしょうか。
括弧に入れる
先入観を持っていないという先入観が、あり得ることをどこまでいっても疑えてしまうため、そもそも理によって先入観を排除することは不可能です。
そこで、フッサールはあえて「判断停止」という言葉を使いました。これを別の表現で、“括弧に入れる”とも言います。
つまり、フッサールは現象学を研究するために先入観が邪魔でも、先入観は理性とセットで、考え出しても自然的態度から脱却できないから、一旦横に置いて(括弧に入れて)おこうと言います。
判断停止とは何もすごく難しい概念ではなく、普段の感覚を一旦忘れないと現象学を始められないという意味です。
アインシュタインの相対性理論を例に、判断停止を考えてみると、光速度を普遍のものとする大原則がありますが、光の速さがいついかなる時も一定であると証明するのはできないです。
しかし、多くの科学者はこの原則を飲み、それによって、さまざまな科学が発展してきました。
話を進めるためにいったん置いておくこの態度は、現象学における判断停止に近いと思います。
7. サルトルのエピソード
現象学の有名なエピソードに、サルトルのものがあります。
ある日のバーで、自身の哲学について悩んでいたサルトルに、友人の社会学者のレーモン・アロンが「君が現象学者だったら、このカクテルについて語れるんだよ。そしてそれは、哲学なんだ。」と言ったそうです。
この言葉に、サルトルは青ざめました。
きっとその時のサルトルには、フッサールの言葉が聞こえていたのでしょう。
「今ごちゃごちゃ考えていることを、いったん脇に置いでこっちにおいで。」
現象学の立場に立つことで、はじめて体験と認識の関係を正しく捉えることができ、真に新しい哲学を打ち立てることができる。
逆に言えば、それまでの哲学が採用していた認識では、目の前のカクテルのことすら語れなかったのです。
このように、フッサールの提唱した現象学は、その後多くの哲学者に影響を与え、21世紀における哲学界のスターを数多く輩出するきっかけになりました。
それは科学の発展の波に押されていた当時の哲学界を生き返らせる一つのきっかけでもあったのです。
今回はエトムント・フッサールの現象学について、その時代背景、概念の簡単な解説をしました。他にも哲学に関する記事を書いているので、合わせてご覧いただけたら嬉しいです。