《Electronic Superhighway(1995)》
チカチカと光るモニターとネオンサイン。よく見ると、アメリカ大陸の形をしています。
この作品の作者は、ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik)。テレビやビデオなどを用いた芸術作品を世界で初めて発表した“ビデオ・アートの父”として知られる、韓国系アメリカ人です。
彼はアメリカや韓国のみならず、日本やドイツなど世界を舞台に活躍したアーティストで、オノ・ヨーコや坂本龍一といった国際的に有名な日本人アーティストとの共同作品も数多く残しています。この記事では、ナム・ジュン・パイクの生い立ちや作品、日本との関係などを解説します。
なかなか理解しにくい分野かと思いますが、楽しんでご覧ください!
1. ビデオ・アートの萌芽
ナム・ジュン・パイク(1932−2006, 以下、パイク)は、韓国の京城(現在のソウル)生まれの現代アーティストです。富裕層の家庭に生まれたパイクは、1950年に勃発した朝鮮戦争をきっかけに家族と香港、そして日本へと逃げ渡ります。
1956年、東京大学文学部、美学・美術史学科を卒業。その後、当時の西ドイツにあるミュンヘン大学とフライブルグ大学で音楽史を専攻したパイクは、前衛的な音楽に強い関心を持っていました。
そのから音楽家を志しますが、当時知り合ったジョン・ケージらの影響を受け、1961年頃から彼らとともにネオ・ダダや、フルクサスの活動に参画します。1963年には、西ドイツ・ヴッパタールのパルナス画廊で、テレビ受像機を使用した世界初の作品を発表。これが、テレビの概念を根本的に覆した、伝説的な個展となります。
メディア・アートの基礎を確立
1964年に渡米した後も、「NJパイク-エレクトロニック展」などの個展で作品を、毎年継続して発表。またこの年に、シャーロット・モーマン(女性チェリスト)とのパフォーマンス“ロボット・オペラ”を行なっています。1965年には、ポータブル・ビデオ・レコーダーを使用した作品を初めて展開、ビデオ・アートの先駆者となります。
1969年、日本人エンジニアの阿部修也と共同で、異なる映像源の画像を組み合わせて操作できる、初期の「ビデオ・シンセサイザー」を製作。これまでの電子的な動画制作を、一変させました。パイクは、こうした精力的な活動を通して、今では当たり前になったテレビやビデオを用いた、新しいメディア・アートの基礎を確立し、新境地を開いたのでした。
2. フルクサスとヨーゼフ・ボイス
パイクが参加していた「フルクサス」とは、1950年代後半、当時のアート業界のエリート主義的な潮流に幻滅した多国籍アーティストたちが集結し生まれた、前衛芸術運動の集団です。
フルクサスは、ラテン語で“流れる”“変化する”といった意味で、フューチャリストやダダイストからの影響があると指摘されており、パフォーマンス的な要素が特徴的です。また、明確な主義や主張を定義することなく、様々な解釈ができる表現、ユーモアのある表現を展開。
主なメンバーとしては、ナム・ジュン・パイクのほかに、ヨーゼフ・ボイス、ヴォルフ・フォステル、ジョージ・ブレクト、オノ・ヨーコなどが有名です。パイクは、ヨーゼフ・ボイスと、1978年にパフォーマンス「ジョージ・マチューナス追悼・ピアノ・デュエット – ボイスとパイク」を演じています。
国際的な活躍
当時の作品としては、《Global Groove (1973)》、《TV Buddha (1974)》、《TV Garden(1974)》など、バラエティに富んだユーモラスな作品が数多くあります。1977年には、同じくビデオ・アーティストの久保田成子と結婚。同時期から、ドイツのハンブルク美術大学やデュッセルドルフ州立美術アカデミーで教鞭をとります。
映像を中心とした彼の作品は、ジャンルやメディアを拡張し続け、1984年には衛星中継による番組《グッドモーニング・ミスター・オーウェル》を発表。映像によるグローバルなネットワークのあり様を明確に表現しました。
その後も、2つの大規模な回顧展を含む数多くの展覧会を開催し、ドクメンタ、ヴェネツィア・ビエンナーレ、ホイットニー・ビエンナーレなどの国際美術展にも出展する、国際的な現代アーティストとして活躍を続けます。
パイクは、2006年、アメリカ・フロリダ州マイアミの別荘でこの世を去りますが、2008年には、白南準美術館(ナム・ジュン・パイク・アートセンター)が、韓国・ソウルの郊外、龍仁市に開館しています。
3. ナム・ジュン・パイクの代表作品
ここからは、ナム・ジュン・パイクの代表作品を紹介します。
《Robot K-456 (1964)》
パイク初のロボット型の作品《Robot K-456》は、阿部修也との共同制作で、1964年に開催された第2回ニューヨーク・アヴァンギャルド・フェスティバルで発表された作品。20ものチャンネルを駆使してリモコン操作するもので、街中を歩き回りながら、ジョン・F・ケネディ大統領の録音演説を再生したり、豆を落としてまるで排泄しているかように見えるユーモア溢れる作品です。
ちなみに、「Robot K-456」という名前は、モーツァルト作曲のピアノ協奏曲「No.456」から命名されたそう。また、1982年に同じくニューヨークのホイットニー美術館で開かれたパイクの回顧展において、道路横断中に車に轢かれてしまうアクシデントが発生。パイクはこの作品のことを、人のように感情があり、生死を経験する「人間化された機械」、「21世紀最初のカタストロフィー」と呼んでいます。
《Global Groove (1973)》
《Global Groove》は、地球上のどのテレビ局にも切り替えられ、TVガイドブックはマンハッタンの電話帳のように厚くなる、明日のビデオ風景の一端である。
予言のようなイントロで始まるこの作品は、パイクとジョン・J・ゴドフリーと共同制作によるビデオ・アート史に残る代表作。世界中のパフォーマンス映像を編集し、ミックスされたもので、映像のコラージュ、壊れた音声、画面の集積が表現されています。パイクはこの作品で、メディアが飽和した後の世界における、コミュニケーションについての過激なマニフェストを表現しています。
多様な文化、芸術界の有名人、ポップな図像などの映像の集積は、幻覚のように様々なイメージが融合され、“制御されたカオス”として、メッセージ性の強い作品です。
《TV Buddha (1974)》
《TV Buddha》は、パイク初めてのビデオ・スカルプチャー(ビデオ彫刻)作品。ブッダの彫刻が、テレビの奥のビデオカメラで撮影されたライブ映像を自ら眺めています。
このインスタレーションでは、近代的な新しい技術と宗教的・歴史的モチーフとを並置することで、東洋と西洋の違い、現代的・未来的な要素と歴史的な要素の違いを浮き彫りにしています。また、虚栄心やメディアによる絶え間ない監視について問う、メッセージ性も感じられます。パイクは、このような禅や道教、仏教の影響を示した作品も多く残しています。
《TV Garden (1974)》
《TV Garden》は、生い茂る植物の中に、大小さまざまなビデオモニターが隠されている巨大なインスタレーション。まるで茂みの中からビデオモニターが植っているように見える、自然と科学技術が調和された作品です。モニターには、先に紹介した《Global Groove》が流れており、没入型のビデオ・インスタレーションとして、多くのメディア・アーティストに影響を与えています。
《Electronic Superhighway (1995)》
冒頭で紹介した《Electronic Superhighway》は、1964年に渡米したパイクが、1995年に制作した作品。巨大な国を車で横断可能にした高速道路やモーテル、レストランに光り輝くネオンカラーなど、各州独自のアイデンティティと文化を表した色彩の違いが特徴的です。他方、テレビの影響をアメリカ全体が大きく受け、均一化されている現代の姿を揶揄しているようにも感じられます。
4. 日本で見られるパイク作品
福岡県のキャナルシティ博多には、オフィスビルとショッピングモールをつなぐ場所に、1996年の開業当時に設置されたビデオ・アート《Fuku/Luck,Fuku=Luck,Matrix (1996)》が展示されています。80台のブラウン管モニターを使った各画面に映し出されるのは、当時の最先端CGやテレビ放送、福岡の伝統芸能など様々な映像の断片。それぞれが拡大したり、連携した動きを見せ、全体で複雑なパターンを展開します。
「アジアの玄関口」を掲げる福岡で、東洋の「福」と西洋の「Luck」が響き合いながら、情報が交錯するアジア的なカオスを表現した作品です。
設置当時、旧福岡シティ銀行の頭取が、ニューヨークの現JPモルガンチェース銀行のロビーにあるパイクの作品をみて感銘を受けたことをきっかけに、福岡県のキャナルシティ博多に設置されることが決まったそうです。
しかし開業5年後の2001年には、映像制御に不具合が生じてパターンの完全な再現が不可能に。その後もテレビの故障が続き、予備が底をつくと、暗いままの画面が増えていきました。ブラウン管テレビの生産は終了していたため新品も調達できず、稼働するテレビが3分の1ほどに減った2019年に放映を取りやめました。
韓国で修理して再輸入
休止後、液晶テレビへの切り替えも検討されましたが、実現には至りませんでした。様々な方法を調査・分析していく中で、韓国でならブラウン管で作品を再生できる可能性があるとわかり、再生プロジェクトがスタート。壊れたテレビを韓国へ輸送し、現地で集めた同型テレビの基板と入れ替えたり、色を塗り直したりして再輸入。約1年かけて180台すべてが再び映るようになりました。
なお、作品の映像を制御する機器は劣化が激しくて修理できず、現在の技術で製作したそうです。事前調査から数えて約4年もかかり、2021年8月に再開しています。
インターメディア的かつ、いち早く最新のテクノロジーを導入するパイクの一連の活動は、メディア・アートの先駆でもありつつ、狭義のビデオ・アートに留まるものでもありませんでした。
後世のメディア・アートへの多大な影響のみならず、東洋思想に基づく、諧謔(しゃれ、ユーモア)も特徴であり、テクノロジーを媒介に、東西を越えた芸術のあり方を提示したという点も忘れてはいけません。