いまに生きる私たちとしては、「「論語と算盤」の精神を、ビジネスならびに人生の柱とするべきだ」という強い確信に基づく渋沢の志を受け取るべきでしょう。
というのもコンプライアンス重視の時代になって、ますます渋沢奉じる「論語と算盤」精神を持つことの重要性が増しているからです。
ーー 齋藤孝
この記事では、齋藤孝さんの「声に出して読む 渋沢栄一「論語と算盤」」を紹介します。本書は、
- 自分の精神的支柱を作りたい
- 人生を自らの手でよくしたい
- 新一万円札の顔になる渋沢栄一について知りたい
という方におすすめです。
本書の著者は齋藤孝さん。明治大学文学部教授です。ベストセラー「声に出して読みたい日本語」など著者は多くの本を出版されています。累計出版部数は、なんと1,000万部以上。
そんな著者の愛読書が「論語と算盤」であり、多くの方に勧めたいと言います。本書は、現代のビジネスと生き方に絡めて論語と算盤を解説しています。
論語を精神文化として受け継ぎ、自分の精神的支柱を作る「論語と算盤」によって、ビジネスと精神のバランスを整える。論語は“政治の書”“戦略の書”とも言え、根幹に人格を据えているからこそ、ビジネス全般に通じる教えが得られます。それでは、その概略を押さえておきましょう!
1. 自分の精神的支柱を作る
「論語と算盤」への言及の前に、自分の精神的支柱をつけることについて、渋沢の考えを本書から3つ解説します。
士魂商才
まずは、本書から士魂(しこん)商才について、渋沢の言葉の紹介です。
昔、菅原道真(みちざね)は和魂漢才と言った。これに対して私は常に士魂商才ということを唱道するのである。
人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上からも自滅を招くようになる。ゆえに、士魂にして商才がなければならぬ。
その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、やはり論語は最も士魂養成の根底となるものと思う。
論語とは、「孔子の言行録」。先生である孔子と弟子たちの会話、あるいは弟子同士の会話が収録されています。主なテーマは、道徳。日本の道徳の大元は論語で、孔子の話した内容について解説しています。
また、士魂商才は渋沢栄一が創作した言葉。士魂が論語の話、商才がお金儲けの話です。もともと武士道の精神においては、お金儲けは良くないという感覚がありました。“武士は食わねど高楊枝”という言葉があるように、自分で自分の首を絞めるような行動原理もあります。渋沢は、そんな武士道の精神と、商才。どちらもバランス良くすることを求めています。
信用は実に資本であって、商売繁盛の根底である
と渋沢が言うように、お金を稼ぐには人格形成が必要で、そのためには、論語を実践するのが良いと言っています。
世界平和につながる「論語の心」
我々はあくまでも己の欲せざる所は人にも施さずして東洋流の道徳を進め、いや増しに平和を継続して、各国の幸福を進めていきたいと思う。
少なくとも他国に甚だしく迷惑を与えない程度において、自国の隆盛を計るという道がないものであるか。
もし国民全体の希望によって自我のみ主張することを止め、単に国内道徳のみならず、国際間において真の王道を行うということを思うならば、今日の惨害を免れしめることができようと信ずる。
なかなか難しそうな内容ですが、論語の主人公、孔子は「まず己の欲せざる所、人に施すことなかれ。」と言っています。これは、自分がして欲しくないことは、人にもしないようにするといった意味です。
弟子の子貢(しこう)から「一生をかけて行う価値のあるものはありますか?」と問われて、孔子が答えたもの。それに孔子は、「恕(じょ)だね!」と言います。恕とは、思いやりのこと。これは、今にも通じる話ですよね。どんな時代でも揺るがない、普遍の真理だと言えます。
なぜ「論語と算盤」が自分の精神的支柱になるのか?
私は論語で一生を貫いてみせる。金銭を取り扱うが何故卑しいか。君のように金銭を卑しむようでは、国家は立たぬ。
官が高いとか人爵が高いとかいうことは、そう尊いものではない。人間の勤しむべき尊い仕事は至るところにある。官だけが尊いのではない。
私は論語を最もキズのないものと思うたから、論語の教訓を標準として、一生商売をやってみようと決心した。
渋沢は30代前半に官僚を辞め、ビジネスを始めます。その時、官僚の統領に引き止められた際の返事が、先ほどの内容です。
渋沢は、日本人は商売が下手だと考えていたようです。商売がうまくいかなければ、日本を強くすることができない。明治時代は富国強兵という考え方が強くありましたが、これは、「国が富むことを優先し、結果として個人が富む」という考え方です。
そのために渋沢自身が商売をし、日本を強くしようと考えたのです。その時に、渋沢栄一が精神的支柱に選んだのが論語でした。渋沢が言うには、“最も欠点の少ない教訓”が論語だったと言います。
論語はそもそも、2500年前に書かれた本。ベストセラー本であっても、10年20年も読みつがれるものも少ないですが、2500年も前から読み続けられている本は、論語と聖書くらいです。
なぜ、これらは今も読み続けられているのでしょうか?
それは、論語の言葉が古びることのない教えだからです。2500年もの間、人々にさらされて生き残った本だからこそ、一番欠点の少ない書であると、渋沢は言います。
2. 渋沢流、算盤について
ここからは、渋沢流の算盤について、本書から3つのポイントを解説します。
よく稼ぎよく使う
渋沢は、しかるに世には貴ぶということを曲解して、ただ無暗にこれをおしむ人がある。真に注意せねばならぬことである。金に対して算べきは濫費者あると同時に、注意すべきは吝嗇(りんしょく)である。
よく集めるを知りて、よく散ずることを知らねば、その極、守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉めると同時に、守銭奴とならぬように注意せねばならぬのである。
吝嗇とはケチ、濫費とは浪費のことです。要するに、金は天下の回りもの、天下にお金を回して皆が潤うようにすることがポイントであると言っています。
欲望に優先順位をつけずにお金を使えば、お金は貯まりません。お金を貯める力が弱く、お金に困ってしまう。そんな濫費者では当然ダメ。
さらに、稼いだお金を自分の手元に溜め込んで使わない吝嗇家も駄目だと言います。お金を稼ぐ力と使う力のバランスよく鍛えることが重要であるという話です。
仁義道徳が気づく「win-win」の関係
利を図るということと、仁義道徳たる所の道理を重んずるということは、並び立って相異ならん程度において、初めて国家健全に発達し、個人は各々そのよろしきを得て、富んで行くというものになるのである。
渋沢は利己主義ではうまくいかない、自分だけが儲けようとしても駄目と言っています。また、
その富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。
と言います。仁義・道徳や正しい通りでお金儲けをしないと、そのお金はすぐになくなってしまう。仁は思いやり、義は共同体としての責任です。
例えば、駅の改札口を通ろうとする時に、みんなが我先にと並ばずに通ろうとすれば、逆に混乱してしまいます。順番に並んで改札口を通った方がスムーズに通ることができますよね。
このように、自分の利益ばかりを考えては、逆に不利益になってしまう。全体の利益を優先するからこそ、自分の利益も大きくなるということを、頭の片隅に置いておきましょう。
好調な時こそ気を引き締める
人は得意時代にも調子に乗るということなく、大事小事に対して同一の思慮分別をもって、これに臨むがよい。
水戸黄門光圀公の壁書中に「小なる事は分別せよ、大なる事に驚くべきからず」とあるは、真に知言というべきである。
渋沢は、人が失敗する原因を2つ上げています。一つは好調時の思い上がり、もう一つは小さなことをないがしろにすることです。
好調時の思い上がり
誰しも物事が思い通りに運ぶ調子がいい時に人は、どうしてもいい気になります。そして、何をやってもうまくいくような気がする全能感から、行動が大胆になってしまいます。これが、結局大失敗に結び付くケースが多い。
例えば、業績をぐんぐん伸ばしていた外食チェーンは、大胆に出店を加速させました。当然出費が増え、財務状態は火の車。そこで、値上げに踏み切るも、結果業績を大きく悪化させてしまいました。今では不採算店舗を次々と占める事態にまで陥っています。
原因は、無謀な出店の裏側で、サービス・商品の質をキープできない状態で値段だけを上げ、結果として客離れが起きてしまったと、著者は言っています。
どこかに人気店だから少しぐらい値上げしても大丈夫というおごりがあったのではないか。商売をする上で大事である質に目が向かなくなるほど調子に乗っていたということです。
小さなことをないがしろにする
小さなことに失敗しても大きなことにならないから大丈夫と考えがちです。しかし渋沢はダメと、小さなことをないがしろにするなと言います。
小さなことは、一つ一つは大した失敗にはならないけれど、積み重なると大変な事態を招く危険性があります。目の前の一つ一つを丁寧にこなしていくことが、重要だと考えていたようです。
3. 渋沢流、論語について
最後に、渋沢流の論語について3つのポイントを解説していきます。
常識人か否かを「知・仁・勇」でチェック
およそ人として世に処するに際し、常識はいずれの地位にも必要で、またいずれの場合にも欠けてはならぬことである。しからば常識とはいかなるものであろうか。
余は次のごとく解釈する。すなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、ぜひ善悪を見わけ、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。
これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。
さらに換言すれば、普通一般の人情を通じ、よく通俗の事理を解し適宜の処置を取りうる能力がすなわちそれである。
ここでは、渋沢が常識について定義しています。一言で言えば、極端にならず、バランスを取るということ。論語で言うところの“中庸”という考え方です。特に「知・仁・勇」の3つのバランスが重要であると言います。
「知」は知恵・判断力、「仁」は感情・思いやり、「勇」は勇気を意味します。
例えば、知恵があり行動力もあるが、性格が冷たい。仁は深いけれども、判断力も行動力もない。頭回らないし性格が悪いし意志も弱いなど、「知・仁・勇」のバランスが一つでも崩れていると、常識がある人とは言えないと言います。
どれも欠かすことなく兼ね備えられた人物だけが、どんな場所でも活躍していけるというのが、渋沢の考え方です。
習慣と人格は一心同体
由来習慣とは、人の平生における所作が重なりて一つの固有性となるものであるから、それが自ら心にも働きにも影響を及ぼし、悪いことの習慣を多く持つ者は悪人となり、良いことの習慣を多くつけている人は善人となるといったように、遂にはその人の人格にも関係してくるものである。
ゆえに何日とも平素心して良習慣を養うことは、人として世に処する上に大切なことであろう。
渋沢は、日々良い習慣をやっておれば善人になり、悪い習慣をやっていれば悪人になると言っています。悪い習慣と知りつつ、改められないのは意志の力が弱いからだと渋沢は言います。
各方面で言われているとおり、習慣こそが人格を作るため習慣は非常に重要。まず手始めに身につけるべき良い習慣を、一つでもいいので2週間ほどやってみたうえで、自分に合っているか続けられそうかどうかを見極めることも重要です。
自分に合っていない習慣ならやめ、別の合いそうな習慣を探してもよいと著者は言います。
人生はチームプレーでうまくいく
孔子の教えに、「仁者は己れ立たんと欲してまず人を立て、己れ達せんと欲して、まず人を達す」と言ってあるが、社会のこと人生のことはすべてこうなくてはならぬことと思う。
人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、その働きを示したもので、君子人の行いの順序はかくあるべきものだと教えられたに過ぎぬのである。
換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余もまた人生の意義はかくあるべきはずと思う。
自分のことで精いっぱいなときに、なぜ人のために力を貸さないといけないのか。先の例に挙げたとおり、自分も早く改札口を通りたい、我先にと皆が改札口に殺到したら、逆に通れません。
順番に列に並び、前の人に通ってもらってから自分も通る。このようにするほうが、結果としてスムーズに通れる。世の中にできているのではないかと言いたいのかと思います。
今回紹介した、齋藤孝さんの「声に出して読む 渋沢栄一「論語と算盤」」についてまだまだ紹介できていない部分が多いです。おすすめの本ですのでぜひ読んでみてください!