マイケル・サンデルが問う『実力も運のうち 能力主義は正義か?』要約(実力至上主義は平等?)

時代を生き抜く考え方・哲学

 

能力主義は正義か。

ハーバード大学の学生の3分の2が、所得規模で上位5分の1にあたる家庭の出身である事実を知っていますか? また、東大生の約60%が、世帯年収950万円以上の家庭出身です。

この事実にもかかわらず、優秀な学生の多くは、入学できたのは努力と勤勉のおかげだと信じています。19世紀以降、私たちは人種や性別、出自によらず、能力の高い人が成功を手にできる、平等な世界を理想としてきました。しかし、こうして生まれた能力主義がいま、エリート層とそれ以外との間に未曾有の分断をもたらしています。

 

この記事では、ハーバード白熱教室で有名なマイケル・サンデル教授の「実力も運のうち 能力主義は正義か?」を紹介します。能力主義を大義名分とした、新たな格差が深まりつつある現代社会。本書では、階級社会の諸問題について、主に教育や政治の点から論じられています。

能力主義は、アメリカや韓国だけの問題ではありません。現代日本もまた、学歴や実績によってエリートたちが過大評価され、一方で多くの人々が不利益を被っています。実力も運のうちか? 平等か? 一緒に考えてみていきましょう!

 

1. 能力主義は民主主義を腐敗させる

grayscale photography of man sitting on chair

 

能力主義には、自分の運命は自分の手の中にある、やればできると人々を元気づける反面、より劣等感を感じさせる面もあります。能力主義がはびこる現代社会において、敗者の失敗は自業自得であり、成功するための才能や意欲が欠けていたからに過ぎないとされるからです。

1958年、マイケル・ヤングというイギリスの社会学者は「メリトクラシーの法則」という著書の中で、“いつの日か階級間の障壁が乗り越えられて、誰もが自分自身の能力だけに基づいて出世する。真に平等な機会を手にしたとしたら、何が起こるだろうか。”と述べています。

 

能力主義は軋轢を生む

労働者階級の子供が特権階級の子供と肩を並べ、構成に競い合うことになる。これは祝福すべきことかもしれません。しかし、ヤングはこれを労働者階級の勝利ではないと考えました。

なぜなら、能力主義は勝者には喜び、敗者には屈辱を育むからです。勝者は自分たちの成功を自分自身の能力や努力、優れた業績への報酬であると考え、成功できなかった人々を見下すでしょう。

一方で、成功できなかった人は、責任がすべて自分にあると自己嫌悪を感じるはずです。ヤングは能力主義は目指すべき理想ではなく、社会の軋轢を招く原因だと考えたのです。

 

富の分配がされないのは、単なる技術的な問題?

現代では、経済活動がモノを作ることから資金を運用することへ移行し、社会はヘッジファンド・マネージャー、ウォール街の銀行家、知的職業階級などに対し、莫大ば報酬を気前よく与えます。

一方、学歴や能力が低いことや、労働者階級が携わる仕事に対する社会の敬意は著しく低下しています。また、政治家や官僚をはじめとするエリート、世の中の多くは、こうした感情的な側面を見落としています。彼らの考えでは、現在の経済問題は富の分配に関する技術的な問題にすぎない。つまり、利益を得てきた人々が、労働者階級を十分に保障していないことだけが問題であるとします。

 

しかし、非エリート層の大衆の不満の原因は、そのような表面的な問題では片付けられません。彼らの不満は、より感情的な問題です。

大衆の不満の捌け口となっているのは、粗暴で権威主義的なアイデンティティーと帰属意識、宗教的原理主義やナショナリズム。これが今日、我々が目にしているアメリカの状況です。40年にわたる市場主導型のグローバリゼーションが、一般市民の力を奪い、大衆の反発を引き起こしています。

 

非エリート層の代弁者

ドナルド・トランプは、自分自身が億万長者であるにもかかわらず、こうした大衆の劣等感や怒りをよく理解し利用しました。平等で均等な機会について、絶えず語り続けた民主党のバラク・オバマ、ヒラリー・クリントンとは異なり、トランプはそのような綺麗事をほとんど口にしません。

こうした戦略的な態度こそ、大衆の非エリート感情とトランプの勝利の核心にあるものでした。

 

他方で、オバマやクリントンのようなエリート層たちが、能力主義が生み出すおごりや、大学に行っていない人に下される厳しい評価を理解するのは難しいです。著者は、現在のアメリカ政治で最も深刻な政治的分断の一つは、大学の学位を持っている人と、思っていない人の間に存在すると主張します。2016年の選挙でトランプは、大学の学位を持たない白人有権者の3分の2の票を獲得しました。

ヒラリー・クリントンは修士号や博士号などの上級学位を持つ有権者の間でのみ得票。また、トランプに投票した人々の多くはナショナリストであり、クリントンに投票した人々の多くはグローバリズムを支持していました。

 

エリート主義的な自惚れ

このような現象は、アメリカ国内に留まりません。イギリスのEU離脱の国民投票でも、同様の分断が現れました。大学教育を受けていない有権者のほとんどは離脱へ賛成票を投じ、大学院の学位を持つ有権者の大多数は残留に投票。

つまり、アメリカでもイギリスでも、学歴が政治思想を分断しているのです。学校教育の制度化や普及とともに社会に浸透した能力主義は、属性により生涯が決まってしまう前近代的な仕組みよりもはるかに公正かつ効率的で、望ましいものであると考えられてきましたが、社会の連帯を蝕み、時代に取り残された人々の自信を失わせたのです。

 

また、能力主義は学位こそが、立派な仕事やまともな暮らしへの主要ルートだと強調することで、学歴編重の偏見を生み出しています。

さらに、古くからある労働の尊厳を傷つけ、大学へ行かなかった人々を劣等感に陥れ、ますます能力主義はエリート主義を助長させます。社会的、政治的問題を最もうまく解決するのは、高度な教育を受けた頭のいい中立的な専門家だと主張することは、エリート主義的な自惚れであると言えます。

能力主義により腐敗してしまった民主政治を再び活気づけるためには、現代社会で賞賛されている能力主義的な努力が自惚れであり、我々の社会的絆に及ぼす腐食効果を真剣に受け止める必要があります。

 

2. 高学歴なら性的暴行も許されるという事実

President Donald Trump

 

ドナルド・トランプの顧問弁護士マイケル・コーエンは、長年にわたりトランプが関わる事件のもみ消し役を務めてきました。しかし、2019年2月、彼はトランプを裏切り議会である証言をしました。

その証言によれば、トランプは通った大学や大学入試委員会に対し、大学での成績を公にしたら訴えると脅したそうです。トランプはおそらく自分の学業成績を恥ずかしく思ったのでしょうし、それが公開されれば大統領への立候補資格、あるいは少なくとも自分の評判に傷がつくことを恐れたようです。

 

学歴編重主義社会

一方で、数その年前にトランプはオバマ大統領が学業成績を公開すべきだと主張しています。トランプにとって、大学での成績は自身の政治活動において非常に大きな問題だったのです。

彼の行為が浮き彫りにしたのは、学歴編重主義が、世間的に大きな意味を持つということ。2000年代に入るころには、大学での成績ばかりか大学入試の結果さえもが、大統領に悪評をもたらす要因となり得るほどまでに重要視されるようになりました。

 

また、トランプは、フォーダム大学で2年を過ごした後、ペンシルバニア大学へ移り、そこでノートン・スクールの学部課程の授業を受けましたが、彼はそのことを入学するのが最も難しい世界最高の大学、超天才の集団の集まりだと自慢しています。自分は頭のいい人間だという度重なる主張は、彼の一つの政治的スタンスに。

しかし、このような苦し紛れの言い分は、同じように自分の学歴にコンプレックスを抱える労働者階級の共感を呼んだのです。彼らはトランプ同様、エリートたちの能力主義的なおごりに怒っていました。

能力主義的な経歴に関する問いかけに直面し、言い訳をした政治家はトランプだけではありません。ここで重要なのは、政治家たちが学歴を粉飾していることではなく、そうする必要があると思っていることです。

 

学歴が素晴らしければ問題ない

2018年、ブレッド・カバノーはトランプによって、連邦最高裁判所を陪席判事に指名されたました。その資格審査も終盤に差し掛かったところで、カバノーに疑義が生じます。ある女性が高校時代のパーティーで、酔ったカバノーから性的暴行を受けたと告発したのです。

この件について上院議員たちが問いただすと、彼は告発を否認しただけではなく、なぜか奇妙なまでに的外れな能力主義的弁明を開始。彼は高校時代にどれほど懸命に勉強したか、いかにしてイェール大学に、さらにそのロースクールに合格したかということを雄弁に述べたのです。

確かに彼の経歴は本物。しかし、彼が18歳の時にパーティーで酒によって、若い女性に性的暴行を加えた事実と、彼の学業成績にどんな関係があるのでしょうか。ところがアメリカでは、物事の判断基準として学歴編重主義が大きな力を持っているため、学業成績が免罪符として機能しています。

結局、カバノーの指名は議会で賛成多数で承認され、彼はめでたく最高裁判事に就任。現代の能力主義者内において、学歴が素晴らしければ、たとえ過去に女性に性的暴行を加えたとしても、何の問題にもならなかったのです。

 

3. 運も実力のうちという自惚れ

man using smartphone on chair

 

ここまで能力主義が、私たちの社会や政治にもたらす危険や害悪について紹介していきました。ここからさらに、能力主義をより道徳的な側面から考察していきます。

まず、2つの社会を想定してみましょう。ともに不平等の社会で、その程度も同等。その上で以下のような違いがあります。

 

貴族社会

一つ目は、貴族社会。所得と資産は出生によって偶然に決まり、一つの世代から次の世代へと受け継がれます。貴族に生まれた者は裕福で、農民に生まれた者は貧しい暮らしを強いられます。同じことが両者の子供にも、その子供の子供にも当てはまります。

 

能力主義社会

二つ目は、能力主義社会。所得と資産の不平等は、世襲特権ではなく、人々が才能と努力によって獲得したものです。多くの人は、この二つ目の能力主義社会が好ましいと思うでしょうが、貴族社会が劣ると思う理由は、資産を生まれた階級に閉じ込めているからです。

貴族社会は人々に出世を許しません。対照的に、能力主義社会では、人々は才能と創意を発揮することで、自分の置かれた境遇を改善することができる。これが、能力主義社会に向かわせる強力な理由です。人々の才能や願望は様々で、能力主義によって不平等が完全に解消されることはありませんが、少なくともそれぞれの能力や功績を反映したという点では、貴族社会よりはフェアであると言えるでしょう。

しかし、次のように考えてみるとどうでしょうか。自分が社会の頂点に立つか、底辺に沈むかが前もって分かっているとしたら? 自分が金持ちになれないと分かっていたら? あなたは、二つの世界のどちらで暮らしたいでしょうか。

 

能力主義という神話

裕福な人と貧しい人の格差は、どちらの社会でも同じくらいひどい前提で、身分が同じならば、どちらの社会も同じと考えられるかもしれません。しかし実際には、単純な所得や資産の量だけでなく、裕福さや貧しさに至るプロセスも、個々の自尊心などに影響を与えます。仮に貴族社会の上位層に生まれていれば、自分の特権は幸運のおかげであり、自分自身の手柄ではないと思える。

一方で、努力と才能によって、能力主義社会の頂点に登りつめたとすれば、その成功は受け継いだものではなく、自ら勝ち取ったものだと誇りに思えることができます。こうした観点からすると、裕福になる場合は、貴族社会よりも能力主義社会の方が自尊心が高く、より好ましいように思えます。

 

貴族社会のような封建社会では、従属的地位にあることは自分の責任だと苦しむことはないはずです。苦役に耐えながら支えている地主は、自分よりも能力が高いのではなく、運が良かったに過ぎないからです。

対照的に能力主義社会で最下層に居続ければ、それは自ら招いたことであり、努力が欠けていたのだと自己嫌悪に陥ることでしょう。この観点からすれば、能力主義社会よりも貴族社会で貧乏である方が、精神的にはまだましであると考えられるかもしれません。

ともすれば、能力主義に対する主な不満は、裕福な家庭に生まれて優良な幼児教育を受けたエリートはスタート地点が違う、大学は入試で裕福でコネのある人々にゲタを履かせているといった、世間にはびこる平等とは言えないことに対してになります。この不満がある以上、現代において能力主義は神話であり、いまだ果たされていない遠い約束です。

 

能力主義は不平等の正当化

また、能力主義の真の問題は、それを実現できないことではなく、その理想そのものに欠陥があるとは考えられないでしょうか。ここで、次のような想像をしてみましょう。ある日、人類は完璧な能力主義社会を実現。その結果、恵まれない環境で育った人を含め、誰もが特権階級と同じ土俵で競い合えるように。この場合、本当に理想的な社会が成立するでしょうか?

著者は、それは疑わしいと言います。まず、能力主義の理想にとって重要なのは地位を動かせる“流動性”にあり、平等であることに価値はないということ。能力主義は金持ちと貧乏人の間の大きな格差が、悪いとは言っていないのです。

能力主義の理念によれば、金持ちの子供と貧乏人の子供が時を経るにつれて、それぞれの能力に基づいて正当に立場を入れ替えることが可能であればよいですが、そこまでの適切な条件をどう設定すべきかは議論はされません。つまり、能力主義は不平等の解決ではなく、不平等の正当化としてのみ機能しているのです。

 

4. 生まれ持って裕福な人がいる方がいい?

man sitting beside side table

 

能力主義の賛成派は、全員が平等な条件で競い合う限り、たとえ不平等が生じたとしても、その結果は平等であると主張します。このとき、問題は才能を持って生まれることが、個々の実力によって得られた功績であるかどうかです。

先に述べたとおり、能力主義社会では、大学に裏口入学できる裕福な家庭に生まれたという優位性を、実力によって得た功績ではなく、持続的世襲と同じ幸運であると非難します。それなら、特定の才能を持って生まれることも幸運ではないでしょうか?

また、自分が持っている才能を高く評価してくれる時代や社会にたまたま暮らしていることも、自分の実力によって得たものだとは言えません。これも、運がいいかどうかの問題です。

 

能力主義社会の魅力は、少なくとも適切な条件下では、成功は自分自身の手柄だと思え、人々に自由の感覚を与えること。しかし、才能は自分の手柄ではないと認めれば、この独立独行のイメージを維持することは難しくなります。自分の才能は遺伝的にたまたま授けられた贈り物だとすれば、能力主義者における努力の成果や実力などという言葉は、的外れな自惚れに過ぎません。

宝くじが当たったのを自分の努力の結果であると公言することと同じ。運は実力ではなく、むしろ実力が運だと言えるのです。また、サンデル教授は、生まれ持って裕福な人はこの自惚れがない分、引け目があり、より資産を利他的使えるため、さも実力で裕福になったと思う人よりも良いとさえ主張します。

 

  • 旧来の貴族社会も現代的な能力主義社会も、不平等を正当化するという点では同じ社会構造である。
  • 能力主義社会にとって重要なのは、成功を得るために必要な機会が、すべての人々に均等に与えられていることであり、そこでは各人の能力差という問題が無視されている。
  • 生まれつき与えられた能力や才能は宝くじのような幸運にすぎず、それを自らの努力の結果であるとする能力主義は的外れな自惚れに過ぎない。

 

今回紹介した、「実力も運のうち 能力主義は正義か?」のほかにもマイケル・サンデル教授の書籍には「これからの「正義」の話をしよう」、「それをお金で買いますか」など多く名著が日本語訳されています。気になる方は、ぜひ手にとってみてください!

 

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