何がすごい?アンリ・マティスの生涯と代表作品を解説!(フォーヴィスム、切り絵、ロザリオ礼拝堂)

アート・デザインの豆知識

アンリ・マティス《緑の筋のあるマティス婦人(部分)》(1905年)

緑色に塗られた鼻筋。

実はこの《緑の筋のあるマティス婦人》は、美術史において重要な作品の1つです。

作者のアンリ・マティスは、“フォーヴィスム(野獣派)”の創始者の一人として20世紀初頭の現代美術に多大な影響を与え、パブロ・ピカソやマルセル・デュシャンと並び、芸術に革新的な発展をもたらした“3大アーティスト”の一人として高い評価を受けています。

彼の作品は、色彩と線の巧みな使用による抽象的でリズミカルなスタイルで知られ、《赤いアトリエ》や《青い裸婦》などはその美しさと鮮やかな色彩で多くの人々に愛されています。

この記事では、マティスの生涯や時代背景、作品を紹介します。読み終わる頃には、彼の作品の良さが理解できるでしょう!

 

1. アンリ・マティスの生い立ちと初期

アンリ・マティス

 

アンリ・マティスは、1868年、フランス北部のノール県ル・カトー=カンプレシの裕福な穀物商の家庭に生まれます。幼少期は、普仏戦争の影響により、家族と共にピカルディ地域圏のボアン=アン=ヴェルマンドワへ移住し、そこで過ごしました。

1887年、19歳のころに、マティスは父の強い意向に従い、パリへ出て法律を学び、故郷のル・カトー=カンプレシの弁護士事務所で働き始めます。

しかし、1889年、21歳の時に、彼の人生は大きく変わります。

虫垂炎で療養中に母親から絵を描くことを勧められたマティスは、この経験を通じて「天国のようなものを発見した」と後に述べています。

この出来事がきっかけとなり、彼は芸術家としての道を歩むことを決意するのですが、この決断は彼の父を失望させました。

 

パリでの芸術教育

1891年、マティスは再びパリに移り住み、ジュリアン・アカデミーに入学。そこで、19世紀フランスのアカデミズム絵画を代表する画家のウィリアム・アドルフ・ブグローの指導を受けます。

その後、ギュスターヴ・モローのアトリエでも非公式に芸術を学び、パリ国立美術大学に入学。古典的な様式を学び、静物画や風景画を中心に基礎技術を磨きました。

この時期のマティスは、ロココやバロックといった古典的な巨匠たち、ジャン・シメオン・シャルダンやニコラ・プッサン、アントワーヌ・ヴァトーの影響を受けていました。

特にシャルダンは、マティスが最も尊敬する画家の一人であり、美術学生の頃には、マティスは彼の作品を頻繁に模写していたとされています。

この時期の経験は、マティスの芸術家としての基礎を形成し、後の彼の作品に大きな影響を与えました。

 

2. ジョン・ピーター・ラッセルとの出会い

ジョン・ピーター・ラッセルによるフィンセント・ゴッホの肖像画

 

1896年、マティスはブルターニュ沖にあるベル・イル島を訪れ、そこでオーストラリアの印象派画家であるジョン・ピーター・ラッセルと知り合います。

ラッセルはマティスに、当時まだ無名であったフィンセント・ファン・ゴッホの作品を紹介。ゴッホの作品はマティスに深い影響を与え、彼の絵画スタイルをより自由な色彩表現へと導きました。

マティスは後に「ラッセルは私の先生であり、色彩理論を教えてくれた存在です」と述べています。

 

家族の影響

1898年、マティスはアメリー・ノエリー・パレイルと結婚。彼女は冒頭の《緑の筋のあるマティス婦人》のモデルとして知られています。

2人は非嫡出子の娘であるマルグリットを含め、息子のジャンとピエールの3人を育てました。また、マルグリットとアメリーは、しばしばマティスの作品のモデルを務めています。

 

特に注目すべきは、次男のピエール・マティスの存在です。

後ほどまた言及しますが、彼はニューヨークで前衛美術の画廊「ピエール・マティス画廊」を開設し、アメリカに亡命したシュルレアリストやジャクソン・ポロックなど、多くのアーティストを紹介。

ピエールは重要な画商としての地位を築き、アメリカ現代美術の発展に大きく貢献すると同時に、マティスの名声を広めました。

マティスは後の芸術家にも大きな影響を与え、ポップアートの巨匠であるアンディ・ウォーホルは「マティスになりたかった」との言葉を残しています。また、クレメント・グリーンバーグやマーク・ロスコといった抽象表現主義の作家にも、色彩表現において多大な影響を与えました。

マティスの家族は彼の芸術活動において重要な役割を果たし、彼の作品にも大きな影響を与えたのです。

 

3. マティスの芸術的旅路

アンリ・マティス《午後遅くにノートルダムを垣間見る》(1902年)

 

1898年、アンリ・マティスはカミーユ・ピサロの勧めにより、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品を学ぶためロンドンへ移りました。

その後、彼はコルシカ島を旅行し、新たなインスピレーションを得ました。

 

仲間たちとの出会い

1899年にパリに戻ったマティスは、アルベール・マルケのもとで働き、この時期にジュール・フランドラン、ジャン・ピュイ、そしてアンドレ・ドランといった画家たちと出会います。

またこの頃マティスは、ポスト印象派の作品に深く没頭し、借金をしてまでこれらの作品を購入し、自宅に飾りました。

彼が収集した作品には、ゴッホのドローイング、ゴーギャンの絵画、ロダンの石膏彫像、そしてセザンヌの《3人の水浴》などが含まれており、特にセザンヌの作品からは構図、色彩、感覚において大きな影響を受けました。

 

家族の危機とスタイルの変化

1902年、マティスの妻アメリーの両親は、「ハンバート事件」で知られる金融事件に巻き込まれます。

アメリーの母親がハンバート家の家政婦であったため、彼女の両親はこの事件の責任を押し付けられ、アメリー一家は詐欺被害者たちに脅かされることに。

美術史家ヒラリー・スパーリングによると、この事件をきっかけに、マティスは家族の唯一の稼ぎ手となってしまったそうです。

この時期、1902年〜1903年にかけて、マティスは比較的地味で形式的な画風になります。

 

このスタイルの変化は、当時の貧困な状況下で商業主義的な作品を制作することを意図していた可能性があり、この時期はマティスの暗黒時代と呼ばれています。

代表作としては、《午後遅くにノートルダムを垣間見る》が挙げられます。

またこの時期、マティスは彫刻にも挑戦しました。

彼はアントワーヌ=ルイ・バリーの作品を模写し、1899年には粘土を使った制作に多くのエネルギーを注ぎ込みました。そして1903年には《The Slave》という彫刻作品を完成させ、新たな芸術領域への一歩を踏み出しました。

 

4. フォーヴィスムの勃興

アンリ・マティス《豪奢、静寂、逸楽》 (1904年)

 

フォーヴィスムは1900年頃に始まり、1910年頃まで続いた芸術運動。しかし、このムーブメントの実際の活動期間は1904年〜1908年に限られており、フォーヴィスムの展覧会はわずか3回しか開催されませんでした。

運動の指導者は、アンリ・マティスと、先に紹介したアンドレ・ドランです。

1904年、彼は新印象派の画家である、ポール・シニャックやアンリ=エドモンド・クロスらとサントロペに滞在。シニャックから影響を受けつつ、荒い点描風のタッチで《豪奢、静寂、逸楽》を描いています。

この作品は、マティスによるフォーヴィスム宣言とも捉えられる、画期的な作品でした。

 

サロン・ドートンヌ展とフォーヴィスムの誕生

1905年、マティスと彼の芸術家グループは、パリの第2回サロン・ドートンヌ展に出展。

この展覧会で、マティスたちグループの作品を見た批評家のルイ・ヴォークセルは、原色をふんだんに使った鮮烈な色彩と、粗々しい筆致に驚嘆し、「野獣(フォーヴ)たちに囲まれたドナテロ!」と評しました。

これが、フォーヴィスムの名前の起源となります。

このとき、マティスが出展したのは《帽子を被った女性》と《開いた窓》。ルイ・ヴォークセルは1905年10月17日に新聞「Gil Blas」に批評文を発表し、“フォーヴィスム”という言葉が広まりました。

展示では作品が非難を浴びましたが、マティスの《帽子を被った女性》は、アート収集家のガートルードに買われ、他の大コレクターたちからの支援もあり、マティスたちは困難な状況から這い上がる勇気を得ます。

 

5. フォーヴィスムの衰退

アンリ・マティス《Blue Nude III(青い裸婦III)》(1952年)

 

フォーヴィスムには、ジョルジュ・ブラック、ラウル・デュフィ、モーリス・ド・ヴラマンクなどの著名なメンバーがおり、彼らはこの運動において重要な役割を果たしました。

 

ギュスターヴ・モローの影響

フォーヴィスムの形成には、象徴主義画家ギュスターヴ・モローの影響が不可欠でした。

モローはパリのエコール・デ・ボザールで教鞭をとり、伝統的な美術を押し付けることなく、生徒たちそれぞれの個性を伸ばすことを重視。

自然物などの単なる模写や美術表現のルールよりも、個性の「表現」こそに芸術の本質があると信じていました。

 

これに影響を受けたマティスは、自らの芸術について「アイデアと手段を単純化することで、明晰さに向かっている。唯一の目標は全体性だ」と語っています。

造形芸術は、単純な手段をもってして、最も直接的に感動を引き起こせるとマティスは考えていました。

 

フォーヴィスム批判とマティスの苦境

1907年、詩人ギヨーム・ポアリネールは雑誌『La Falange』でマティスの作品を「極めて合理的」と評しました。

しかし、当時のマティスの作品は強烈に批判され、フォーヴィスムの画風で生計を立てることは容易ではありませんでした。

特に、1907年の作品《青い裸体》は、1913年のシカゴの国際近代美術展で大批判を浴び、抗議する学生たちによって焼かれるという悲劇に見舞われました。

 

フォーヴィスムの運動は、マティスのキャリアにほとんどよい結果をたらさず、1906年を境に衰退。

その後、マティスはパリ・モンパルナス派の芸術グループの一人として活動し、彼の優れた作品の多くは、1906年〜1917年のこの時期に制作されました。

 

6. ピカソとマティス、芸術と社交の交差点

Interior of 27 Rue de Fleurus, circa 1907

 

1906年4月、アンリ・マティスは11歳年下のパブロ・ピカソと出会います。この出会いは、2人が終生の親友でありながら、同時にライバルでもあるという複雑な関係の始まりでした。

 

ガートルード・スタインとの関係

マティスとピカソは、パリのサロンで出会ったガートルード・スタインやアリス・B・トクラスといった著名なコレクターによって紹介されました。

特に、ガートルード・スタインと、彼女の弟であるレオ、マイケル、マイケルの妻サラは、マティス作品の大口のコレクターでした。

ガートルードの友人であるコーン姉妹も、この頃からマティスやピカソの作品をコレクションしており、数百点もの絵画や素描を集めました。

 

「27 rue de Fleurus」の社交サークル

マティスやピカソを含む多くの芸術家たちは、ガートルード・スタインの社交サークルである「27 rue de Fleurus」に集まり、毎週土曜日に定期的な集会を開いていました。この集まりは、当時のパリの芸術界における重要な社交の場でした。

ジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、フェルナンド・オリヴィエ(ピカソの妻)、ギヨーム・アポリネール、マリー・ローサンサン、マック・ジャコブ、アンリ・ルソーなども、この社交サークルの集まりに参加していました。

これらの集まりは、芸術家たちにとって創造的な刺激と交流の場となり、20世紀初頭の芸術界における重要な動向を形作るのに一役買っていました。

 

7. 第二次世界大戦とマティス

アンリ・マティス 《ピエール・マティス(97)》(1954年)

 

1940年6月、第二次世界大戦下におけるナチス・ドイツのフランス侵入に伴い、マティスはパリを離れ、南フランスのニースへ避難します。

彼はアメリカやブラジルへの亡命を検討しましたが、最終的にヴィシー政権下のフランスに留まることに。この決断は、占領下のフランス人にとって大きな励みとなり、彼の存在が国民の誇りとされました。

 

ヴィシー政権下の芸術状況

1940年から1944年のヴィシー政権下では、マティスのような前衛芸術はドイツ語圏ほど攻撃されず、パリは比較的寛大でした。

ユダヤ系芸術家を除き、キュビストやフォーヴィストなどの近代美術家の作品展示が許されていましたが、「アーリア人」であることを宣言する必要がありました。

この時期、マティスは絵画制作に加え、グラフィックアーティストたちとのイラストレーションの仕事や、パリのムルロ・スタジオで100点以上のオリジナルリトグラフの制作を行いました。

 

ピエール・マティスと「亡命芸術家」展

この頃、先に紹介したマティスの次男・ピエールは、ニューヨークで画廊を始め、ユダヤ系や反ナチスの作家展を精力的に行いました。

1942年には「亡命芸術家」という展示会を企画し、これにイブ・タンギー、マックス・エルンスト、フェルナンド・レジェなど多くのシュルレアリストが出展。展示は大反響を呼び、歴史的なものとなりました。

 

一方、マティスの元妻アメリー夫人といえば、秘密裏にフランスの交信係として活動し、6ヶ月間の投獄を受けます。

彼の娘マルグリットは、レジスタンス活動に参加し、ゲシュタポに逮捕された後、ラーフェンスブリュック強制収容所へ送られましたが、連合軍の空爆を利用して脱出し、生き延びました。

マティスの弟子だったルドルフ・レヴィは、1944年にアウシュヴィッツ強制収容所でナチスによって殺害されました。彼はナチスの迫害の犠牲者の一人となりました。

 

8. マティスの愛人たちとその影響

ロザリオ礼拝堂 © NHK

 

アンリ・マティスは、若いロシア移民の女性リディア・デレクターズカヤに魅了されました。彼の妻アメリー夫人はこの関心に気づき、夫婦の関係は急速に悪化し、1939年には離婚に至りました。

離婚後、デレクターズカヤは自殺を試みましたが、奇跡的に生き延び、マティスのもとに戻りました。彼女はマティスの家族の一員として、またマネージャー、アシスタント、モデルとしてマティスの生活と芸術に深く関わりました。

 

病と新しい芸術スタイルの発見

1941年、マティスは十二指腸癌に罹患し、手術後に重篤な後遺症に苦しみます。身体の自由が効かなくなったこの頃から、彼は紙とハサミを使ったコラージュによる新しい表現スタイルを探求し始めます。これが、後の有名な「カットアウト」作品へと発展しました。

同じく1941年、看護学生であったモニーク・ブルジョアがマティスの介護を担当。彼女との間に特別な関係が築かれ、マティスは彼女に美術の技術を教えました。

 

モニークが1944年に修道院に入る決断をした後も、二人は連絡を取り合い、彼女がドミニコ会の修道女となったのちに、マティスは彼女が属するヴァンスのロザリオ礼拝堂の内装デザインを手掛けることになります。

この礼拝堂はマティスの集大成であり、彼の切り絵をモチーフにしたステンドグラス、また白いタイルに単純かつ大胆な黒い線で描かれた聖母子像は、20世紀のキリスト教芸術の代表作として、今も高く評価されています。

 

9. マティスの代表作を紹介

アンリ・マティス《ダンス(Ⅰ)》(1909年)

 

ここからは、ここまでの内容を踏まえ、マティスの代表作をいくつか紹介します。

《赤いアトリエ》

アンリ・マティス《赤のアトリエ》(1911年)

「現代美術はその色彩で悦びをまわりに振りまき、私たちを癒す」

冒頭でも触れた《赤いアトリエ》は、自身のアトリエを華々しい赤で満たした作品。マティスは、気に入るまで色彩を変えてしまうのでした(アトリエは実際には白だった)。

美術作品と装飾品はしっかりと描かれているのに、家具と建物は線による図形として赤い表面に「溝」のようになぞられているだけ。この溝は、赤の下にすでに塗ってある黄と青の絵具を露わにします。

 

全体の構図は、平らな長方形をした、針のないおじいさんの古時計の不思議な縦軸の周りに集まり、時間はこの不可思議な空間では止まっているかのようです。

前景のテーブルの上には、画家の代役的なシンボルと思われるクレヨンの箱が開いたまま置いてあり、私たちを部屋の中へと誘います。

しかし、アトリエ自体は触知できない線と微妙な空間の不連続性とで区切られて、マティスの私的な宇宙を保っています。

 

マティスのこのアトリエは、1909年に新しいパトロンの助力によって建てたもので、そこは自身の作品を丹念に配置し展示しています。

線は角度をつけて奥行きを暗示し、窓の青緑の光は室内空間の感じを強調していますが、赤の広がりがイメージを平坦にしています。マティスはこの“感じ”を、例えば部屋の角の垂直線を描かないことによって強調しています。

 

《ピアノ・レッスン》

アンリ・マティス《ピアノ・レッスン》(1869年 – 1954年)

ピアノをひどく真剣に弾いている少年は、のちに画商となり、マティスを支援した息子ピエールです。

背後から少年を監視しているかのような先生と思われる女性は、実はマティスの《高い腰掛けの女(ジェルメーヌ・レナル)》という絵画の中の人物で、その絵は窓際の壁に掛かっています。

《ピアノ・レッスン》は、二つの異なる空間を扱っています。

ひとつは窓から外の大気を見た眺め、もうひとつは(高い腰掛けの女)という手で触ることのできるカンヴァス。

まるで、どちらも等価のように扱われていますが、音楽を演奏しているところを描写することで、本作でマティスは形態上と哲学上の両方の問題について語っています。

 

くすんだ色彩で描かれたこれらの平坦な面は、キュビスムの絵画とつながる幾何学的な区画を成していますが、マティスはそれまでそのスタイルで制作したことはありませんでした。

本作品は彼がキュビスムの絵画的構造についての考え方を研究したことを教えてくれますが、同時に完全にマティス独自のイメージを生み出してもいます。

 

《ナイフを投げる男》

アンリ・マティス《XV ナイフを投げる男》(1947年)

左側に描かれたエネルギッシュで生き生きとした赤紫の形態は、ナイフを投げる人物。一方、右側の両腕をあげ静止した薄青の形態は、サーカスショーでお馴染みの女性のパートナー。

構図のあちこちに浮遊する葉っぱのような形態は、この美しい場面に夢のような雰囲気をあたえています。

冒険好きな出版人であるテリアードは、本作をはじめとしたのもあやなコラージュで一冊の本をつくるようにマティスに薦めました。

 

マティスは作品集の制作にあたり、印刷法にポショワールを選びました。ステンシルを使ってグワッシュインクを塗る手法で、平担で鮮やかな色彩に満ちた面を作り出すことができるので名高い技法です。

「これらのイメージは生き生きとしい合いで、サーカス、民話、旅行などの思い出を結晶させて生み出された」と、マティスは本作について、彼の類い希な作品集である「ジャズ」の挿画に付けた詩的な文中で述べています。

 

《スイミング・プール》

アンリ・マティス《スイミング・プール》(1952年​​)

マティスのもっとも大きい切り抜き絵である《スイミング・プール》について、彼は、

「私はいつも海が大好きだった。もう泳ぎに行くことができないので、まわりにこれを置いているんだ。」

と述べています。

事実、この白い長方形の帯を背に泳者が青くかたどられている、ほぼ54フィート(約16.5m)の長さのフリーズ(帯状装飾)は、ニースのレジーナ・ホテルにあるマティスのダイニングルームの壁を飾るようにデザインされました。

これを制作した頃、マティスはベッドにいるか車椅子で動くしかできなかったので、自分日身の楽しみのために、この自然界の抒情詩のような描写を構想したのです。

 

右から左へ読むと、はじまりと終わりにヒトデの形があり、飛び込む人物や泳ぐ人物のシルエットが続き、最後は青い形がザブンとはねる水を型取る。

ダイナミックに背景と戯れながら、それぞれの泳者は次の泳者へとリズミカルにつながり、時には優美なアラベスク模様を描いて水平の帯を気ままに超えていきます。

 

マティスは対照的な視点(上から水の中を見下ろす視点と、水中から見ているような横からの視点)を組み合わせ、人物の様々なポーズ自体が全体としての構図を決めています。

マティスは、かねがね理想的な環境を作りたいという夢を持っていましたが、このハツラツとした、かつ静謐な水のイメージによって、その夢を見事に実現させました。

 

10. アンリ・マティスの現代美術への影響

 

最後にまとめです。

アンリ・マティスは、フォーヴィスムやフランス表現主義の代表者として活躍し、線を単純化したり、色彩を純化したりすることで、個性や感情をいかに表現するかを探求し続けました。

1920年代以降は古典絵画へと回帰し、第二次世界大戦中も絵画活動を続け、教会の内装デザインやグラフィックデザインで活躍しました。

晩年には、切り絵(カットアウト)による壁画レベルの巨大な作品を制作し、その評価を高めました。マティスは1943年にヴァンスの丘の上に移り住み、そこで「ジャズ」シリーズという最初の主要なカット・アウト作品集を制作しています。

また、マティスは後世の芸術家にも多大な影響を与え、シルクスクリーンで有名なポップアーティストであるアンディ・ウォーホルは「マティスになりたかった」と言葉を残しています。

 

彼の単純で鮮やかな色使いや、リズミカルな模様、形態、形状は、カラー・フィールド・ペインターたち(特にマーク・ロスコやケネス・ノーランド)などの代表的な抽象表現主義の作家にも影響を与えています。

彼らはマティスの作品、例えば《赤いアトリエ》(1911年)のような作品に魅了され、色と色の関係性を重視するスタイルを発展させました。

また、マティスは芸術作品だけでなく、空間デザインや舞台美術など様々な分野に自分のアイデアを適用しました。

リチャード・ディーベンコーンのような芸術家は、マティスがどのように空間の錯覚を作り出し、平らなキャンバスと主題の間の空間的な緊張に興味を持っていたことに注目しました。

ヴァンスのロザリオ礼拝堂は、いつか生で見てみたいですね。

以上、アンリ・マティスの生涯や時代背景、作品を紹介でした!

 

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