無印良品は、シンプルなパッケージと、使いやすいアイテムを取りそろえていて、国内外問わず幅広い年齢層に愛されていますよね。しかし、なぜ今のような「無印」を売るブランドとなったのでしょうか?
この記事を読むと、無印良品がどのような歴史をたどって、今のかたちなったのかを知ることができます。それでは、一緒にみてきましょう!
1. 無印を誕生させた、堤清二のバブルへの違和感
無印良品の歴史が始まるのは、1970年代後半。西武百貨店やパルコなどを傘下に持つ、巨大なセゾングループの一員であった西友ストアが、プライベートブランドを作ろうとしたところから始まります。
ブライベートブランドとは、小売業者や流通業者によって企画販売される製品ブランドのこと。例えば、イオンのトップバリュやセブンイレブンのセブンプレミアムなどがあります。
この時代、日本はバブル経済に差し掛かろうとしていたところで、消費者は分かりやすいハイブランドを支持する風潮がありました。多くのメーカーが高級ブランドを量産する一方で、セゾングループ代表で詩人でもあった堤清二(つつみ せいじ)は、西友のプライベートブランド開発にあたり、1つの大きな疑問を感じていました。
それは、商品にブランド名が付くだけで、価格が上昇するということに対する疑問でした。こんな状況は本当に正しいのだろうか。そう考えた堤は、「ブランドを主張しないことで価格を抑えられる方が、消費者に喜ばれるのではないか」と考えます。
そして堤率いる西友は、この時代に“あえて”ブランドがないブランドを作ろうと決めたのです。1980年、20世紀を代表するグラフィックデザイナー・田中一光発案のノーブランドグッズをはじめとした「無印良品」を、プライベートブランド名として名付けます。
2. ワケあって安い。無印良品が大躍進!
無印良品の当初のラインアップは、医療品、加工食品、雑貨といったもので、パッケージにはブランド感を出さないナチュラルテイストなものが使用されました。
西友ストアのほか、西武百貨店や阪神百貨店、さらにはファミリーマートなどで販売されると、低価格ながら品質の良いこれまでにないブランドとして認知され、消費者の支持を獲得し始めます。
立ち上げから3年後の1983年には、東京の青山に初めての路面店を出店し、「わけあって、安い」という興味を引くキャッチコピーで販売を開始すると、若者を中心に無印良品の売り上げはどんどんと上昇していきます。
販売開始からわずか5年後の1985年には、ブランド単体での売り上げが100億円規模に達し、無印良品事業は1989年に西友から独立をする形で「株式会社良品計画」として新たにスタートを切ります。
こうして、西友から生まれたプライベートブランド「無印良品」と、それを要する良品計画は、大企業発ベンチャーと呼ばれ、一躍有名企業になりました。
しかし1990年代に入ると、バブル経済が崩壊し始め、西友を含む大手スーパーマーケットの多くが業績を落としていきます。
そんな中、無印良品は消費者の安くて品質の良いものを求める風潮にコンセプトが合致し、売り上げを伸ばし続け、良品計画は1995年に株式上場。上場時点で369億円であった営業利益は、5年後の2000年には1000億円を突破し、その右肩上がりの業績は無印神話として賞賛されます。
3. バブル崩壊、そしてユニクロ、ニトリの猛追!
無印良品の躍進の一方で、バブル崩壊により、セゾングループの中心的な存在であった西武百貨店と西友は経営不振に陥ってしまいます。
当時のセゾングループには、強烈な個性でグループを率いてきた堤清二を中心に、個人の感性を生かすという風潮がありました。このスタイルは、無印良品のような全く新しいブランドコンセプトを生み出す、0から1の局面では圧倒的な強さを誇りましたが、確立されたブランドを成長させる1から10の局面では感性を軸にした経営では弱いという弱点があります。
そんなセゾンの一員である良品計画も、商品の在庫管理や店舗マネジメントのマニュアル化といった、地味な業務は軽視されていました。その隙を突くように現れたのが、ユニクロやニトリといったスピード感のある専門店。
特にユニクロは、当時のファッション業界では考えられないほどの出店スピード、商品の品質や種類によって、瞬く間に消費者の支持を集めていきました。
ライバル社からの猛追を受ける中でも、セゾンという巨大グループに残る関西の経営を続けてしまった良品計画は、2000年に入りついに減益。成長を遂げた企業だけに、市場に大きなインパクトを与えます。
1999年末に2万円台であった株価は、2000年3月には3,000円台にまで急落。当時の社長であった堤は、責任を取って辞任する事態にまで落ちてしまいます。