“抽象画はスゴそうだけど、なぜ値段が高いのか分からない” と思ったことはありませんか?
一見、絵の具を塗りたくっただけのように見えますが、高く評価されるのには理由があります。幾重にも考え、計算つくされた法則や、その1枚に至るまでの背景や哲学など、一見しただけでは分からない複雑な要素が絡み合い、単純な構図の茫漠とした色面は、見る者に、孤独や不安を感じさせ、その絵の前にひとり佇ませます。
この記事では、抽象度が極めて高い画家 “マーク・ロスコ” を例に、
- 彼の生い立ち
- 表現技法
- 作品が見られる場所
を解説していきます。ロスコのここが凄い!をサクッ知りたい方、必見です!
1. 深く静かで瞑想的なロスコの絵画
見ている者を包み込むような、フラットな色彩で大きな画面を埋め尽くす抽象表現のスタイルを「カラーフィールド・ペインティング」と言います。
その代表的なアーティストがバーネット・ニューマンやヘレン・フランケンサーラー、そして孤高の画家、マーク・ロスコ(Mark Rothko)です。
ロスコの絵画は、油絵の具を水彩のように薄く溶き、何層も塗り重ねることによって生み出される深い透明感が特徴です。その表面をしばらく凝視していると、最初に見えていた色とは異なる色彩が浮かび上がってきます。
見る者は感情の奥の方が揺さぶられ、その深く入り込んでくる感覚は、一種の瞑想や祈りに近いものを感じるのではないでしょうか。
《シーグラム壁画(1958-59)》や《灰色の上の黒(1969-70)》の連作といった暗い色調の絵画だけでなく、《オレンジと黄》(1956)などの明るい色調の絵画もまた、どこか静謐な哀しみをにじませます。
なぜロスコは、この表現方法を選んだのか?
彼も初めからここまで抽象的であったわけではありません。具体的な絵画を描き続け、紆余曲折の末に辿り着いた洗練された表現方法なのです。
彼の変遷に沿って、この表現にいたる過程をみていきます。
2. ロスコが抽象表現に行き着く過程
マーク・ロスコ (本名:マルクス・ロトコヴィッチ)は1903年、ロシア北西部のドヴィンスク(現ラトビア)のユダヤ人家庭に生まれました。
当時のロシア領では、ユダヤ人であるマルクスは迫害を受け、さらにはロシア革命が勃発しそうであったことから、1910年にアメリカのオレゴン州ポートランドへ移住することになります。
優秀な学生であったマルクスは、奨学金で名門イェール大学に入学しますが、WASPが集まるエリート大学になじめず、そこでのユダヤ人差別に嫌気がさし、早々に中退。
その後、ニューヨークで美術の道を志し、ニュースクール・オブ・デザインに入学、1935年にはアドルフ・ゴッドリーフらと前衛アートのグループ「ザ・テン」を結成してグループ展を開催します。これが、ニューヨーク・タイムズ紙に酷評されることに。
1940年、酷評から芽が出ず、泣かず飛ばすで37歳になったマルクスでしたが、ここで英語風に名前を“マーク・ロスコ”と改め、アメリカの市民権を獲得します。
さらにこの時期、第二次世界大戦の戦場であったヨーロッパを逃れ、マルセル・デュシャンら多くのシュルレアリストがニューヨークにやって来ました。
ロスコは彼らから強く影響を受け、この頃から悲劇的な要素を描くようになり、少しずつ具象から抽象へと作風が変化し始めることになります。
1946年から彼は作品に題名をつけることをやめ、番号のみとし、題名から読み取れる情報(ノイズ)を消失。
そして1949年、46歳にしてついに縦長のキャンバスに複数の色の帯を描く「マルチ・フォーム」の表現に至り、抽象度の高いロスコ・スタイルが完成、縦長の大きなキャンバスに矩形の色面を縦に配置する代表的なスタイルを確立します。
絵具は、しばしば下の色が透けて見えるほど薄く塗られ、ロスコ自身、色彩の“振動”を「呼吸」の比喩で語っています。人体よりも少し大きめにつくられた縦長の画面は、あたかも他者と対面するかのような感覚を鑑賞者に与えます。
50年代から60年代にかけて、ロスコは、そうした対面構造を持つ大型の抽象絵画を多数制作し、バーネット·ニューマンやスティルとともに、カラーフィールド系の抽象表現主義の画家として活躍しました。
3. なぜ?抽象表現の裏にある緻密な計算
「絵を描くことが自己表現に関わると考えたことは、これまでに一度もありません。絵とは、自分以外にひとに向けた世界に関わるコミュニケーションにほかなりません。このコミュニケーションの内容に納得すると、世界は生まれ変わります。・・・」
「私は悲劇、忘我、運命といった人間の基本的な感情を表現することだけに関心があります」
ーーマーク・ロスコ
ロスコはこんな言葉を残しています。彼は作品と対峙した人がどう感じ取るか、どう理解するかに徹底的にこだわって作品をつくりました。
そして、それを表現するうえで以下の「7つの成分」を大切にしていました。
- 死に対する明瞭な関心はなければならない… 命に限りがあり、それを身近に感じること。悲劇的、ロマンティックな美術等は死の意識をあつかっている。
- 官能性…世界と具体に交わる基礎。存在に対して欲望をかきたてる関わり合い方。
- 緊張…葛藤あるいは欲望の抑制。
- アイロニー…人がひと時、何か別のものに至る為に必要な自己滅却と検証。
- 機知と遊び心…人間的要素として。
- はかなさと偶然性…人間的要素として。
- 希望…悲劇的な観念を耐えやすくするための10パーセント。
これらの成分を基に、ロスコは色の構成比率を算出していたそうです。
はっきりとは理解に苦しみますが、これらの成分により表現された作品と対峙した時の、様々な感情が層になって現れる、宗教的かつ崇高な感覚は、ぜひ生で体験していただきたいです。
4. 日本でも見られるロスコの絵画
ロスコは作品を他の作品とは別に、まとめて展示することにこだわり、単体で展示されることを拒否していました。
晩年、シーグラムビルの高級ホテル「フォーシーズンズ」から壁画の制作依頼を受けた彼は、30点近くの作品を完成させますが、それが投機の対象として売買されること、そのホテルのレストランもそんな投機家をはじめとするセレブの店と知った彼は、「食事が5ドル以上の店は犯罪だ」と作品の納品を拒否します。
そして、この公開日にニューヨークの自宅で大量の精神安定剤を服用後、自らカミソリで絶命。彼の死後、その遺作たちの処遇にもめ、シーグラムビルの壁画は結局3つの美術館に残されることになりました。
DIC川村記念美術館
そのうちの1つが、千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館です。
そこには彼の望みどおり、まとめて展示される「ロスコ・ルーム(ロスコが空間と一体となることを望んでいたため一部屋まるごとが展示室と使われている)」と呼ばれる展示室があり、7枚の絵画と空間全体で一つの作品になっています。
アクセスは悪いですが、最寄駅からシャトルバスも出ているので、一度は足を運んでぜひ作品を肌で感じていただきたいです。
ロスコ・チャペル
日本ではないですが、もう一事例。1964年、著名なコレクターとして知られるデ・メニル夫妻から、地元ヒューストンにあるセント・トーマス大学の礼拝堂のための作品制作の依頼を受けます。
これは後に「ロスコ・チャペル」と呼ばれ、彼の晩年のライフワークとなります。
八角形の空間に設置された濃紺や黒の絵画は、「三連画」としての対面構造を保持しつつ、鑑賞者を取り囲んで知覚と意識のレベルで働きかけるため、分裂した注意の経験を鑑賞者にもたらします。
1964年〜1967年にかけて18点を完成させますが、1970年にこの世を去ったロスコは、1971年の礼拝堂完成を見ることはありませんでした。
ロスコは、後の世代が追求した課題に先駆的に取り組んでいたと言えます。
その絵画は、形式上の実験に止まらず、対面構造を通して、鑑賞者の経験という主題の可能性を切り開き、直接的な影響関係はなかったものの、ミニマル·アートへと受け継がれていきます。
また、照明を抑えた室内の展示を望んだロスコは、悲劇の感情を引き起こす絵画との対話、そうした絵画に取り囲まれる場の体験をつくりだそうとしました。
鑑賞者と向き合い、場を生み出す絵画を目指したロスコの取り組みは、一見まったく異なるものの、ミニマル·アートやインスタレーションなど次世代の美術の試みに先駆けるものでした。
今回は以上です。
これを参考に、みなさんがアートに触れる機会が増えることを願っています。