キュビズムへと繋がる、ポール・セザンヌの作品と技法を解説【美術界に最も影響を与えたリンゴ】

アート・デザインの豆知識

《リンゴとオレンジ》1895年

このリンゴとオレンジの絵をみて、何か違和感を感じませんか?

この作品の作者は、ポール・セザンヌ。風景画や静物画で知られる19世紀後半の画家です。

彼の作品は、単なる自然の模写にとどまらず、見る者の視覚に訴えかける深い哲学を持っています。特に、ピカソで有名なキュビスムという芸術運動の基礎を築くことに、大きく貢献しました。

この記事では、セザンヌの静物画を起点として、彼の芸術的探求を掘り下げていきます!

 

1. 19世紀から20世紀の美術の架け橋

ポール・セザンヌ

 

ポール・セザンヌ(1839年1月19日 – 1906年10月22日)は、フランス出身の後期印象派に分類される画家です。

キャリアの序盤は印象派の一員として活動していましたが、1880年代には独自の道を歩み始め、伝統的な絵画の枠を超えた新しいスタイルを追求し、ポール・ゴーギャンやフィンセント・ファン・ゴッホと並ぶ、後期印象派の巨星として美術史にその名を刻んでいます。

セザンヌは19世紀〜20世紀初頭にかけての前衛芸術へと移行する架け橋として、高く評価されており、前述のとおり、彼の作品はキュビスムという芸術運動の基礎を築くことに、大きく貢献しています。

アンリ・マティスとパブロ・ピカソは、セザンヌを「近代美術の父」と称えています。

彼の画風は、繰り返し用いられる実験的なブラシストロークと平面的な色使い、細かな筆致を特徴としており、これによって複雑な画面が生み出されています。

これは彼が対象を緻密に研究した結果であり、彼の作品は視覚的にも非常に印象的です。その特徴は、以下の表のように変遷していきました。

初期1860年〜1870年(20代)ロマン主義
中期1872年〜1878年(30代)印象主義
後期1879年〜1887年(40代)構成主義
晩年1888年〜1906年(50代)総合主義

そんなセザンヌについて、生い立ちから晩年まで、もう少し詳しくみていきましょう!

 

2. 幼少期と芸術家としての道

《ジャ・ド・ブッファンの池》1876年

 

セザンヌは南フランスのエクス=アン=プロヴァンスで生まれ、幼少期から芸術に興味を持っていました。

父は銀行を経営しており、セザンヌは経済的に裕福な家庭で育ちます。

彼は地元の学校で教育を受け、将来父の銀行を引き継ぐことが期待されていましたが、1857年、18歳の時にエクスという所のドローイング自由私立学校に入学し、絵画の勉強を始めます。

セザンヌは当初、法学を学びながら絵画を学びましたが、大学の友人であるエミール・ゾラからの励ましもあり、本格的に絵画の道に進むことを決意します。

彼の父との関係は銀行員を引き継がなかったことなどから時折緊張しましたが、最終的には和解し、約40万フランの遺産を相続し、早い段階で経済的に自立することができました。

 

印象派との出会い

1861年4月、セザンヌは大学を中退し、芸術の中心地であるパリへと移住しました。彼はパリのルーヴル美術館にて、ベラスケスやカラヴァッジオといった巨匠の絵画に深い感銘を受け、芸術への情熱をさらに燃え上がらせます。

しかし、フランスの高等美術学校であるエコール・デ・ボザールへの入学は叶わず、彼は私塾であるアカデミー・シュイスで学ぶことを選びました。

そこでは、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンといった、後の印象派を代表する画家たちと出会い、彼らとの交流を深めることになります。

また、セザンヌは朝はアカデミーで学ぶ一方で、午後はルーヴル美術館でデッサンをしたり、画家仲間であるジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエで制作活動を行ったりしていました。

 

セザンヌの交友関係

セザンヌは前述の印象派画家の中でも、特にカミーユ・ピサロと親しくなり、彼との友情は1860年代に深くなります。当初は師匠と弟子のような関係でしたが、ピサロはセザンヌに造形的な部分で大きな影響を与えています。

また、セザンヌの初期の作品は、人物の内面と風景が関連しており、全体的に暗く重い雰囲気を持っていました。これはウジェーヌ・ドラクロワやギュスターブ・クールベの影響を受けたロマン主義的な描き方と言えます。

セザンヌはピサロと共に、ルーヴシエンヌやポントワーズといった土地を旅し、風景画を描きました。この期間中に彼は明るい印象主義の技法を身につけ、彼の色使いは徐々に明るくなっていきました。

 

3. パリ・サロンとの葛藤

《The Artist’s Father, Reading “L’Événement”》1866年

 

セザンヌの作品は、1863年にサロンの審査に落ちた作品の敗者復活戦のような“落選展”で初めて展示されましたが、パリ・サロンでは1864年〜1869年まで毎年落選し続けました。

彼の仲間たちが次々と入選していく中で、セザンヌだけが孤立していくことになります。

しかし、1882年に彼はついにパリ・サロンに入選。

これは同僚アントワーヌ・ギュメの助けがあったためで、ギュメは審査員としての立場を利用してセザンヌの作品を入選させました。

この時の作品は「Portrait de M. L. A」と名付けられており、現在ナショナル・ギャラリーに保存されている「「レヴェヌマン」紙を読む画家の父」であると考えられています。

 

印象派からの独立

セザンヌはモネ、ルノワール、ピサロといった印象派の画家たちとの友情を保ちつつ、第4回印象派展以降は参加を控えた1878年には、印象派から距離を置く決断をします。

セザンヌは印象派の光と色の饗宴の中で形態が溶解し、視覚の快楽の中で造形への意志が希薄になる傾向に不満を抱くようになっていったのです。

彼はモネの才能を認め、「モネは一つの眼に過ぎない。しかし、何という眼だろう!」と称賛し、色彩表現の輝きを保ちつつも、しっかりとした造形世界を築き上げ、視覚認識を根本から変革しようとする姿勢がセザンヌの偉大さを形作っています。

 

エクスへの帰郷

1880年頃、セザンヌはパリから故郷エクスへと制作の拠点を移します。

彼は印象派から距離を置き、独自の絵画世界を確立し始めます。

またこの頃、セザンヌの妻子の存在が父親に知られ、父子の関係は悪化。送金が途絶え、セザンヌは友人ゾラに月60フランの援助を頼むことになりました。

 

4. キュビズムの基礎となる独自の世界

《サント=ヴィクトワール山》1887年

セザンヌは自然の中にある幾何学的要素を単純化することに関心を持っていました。

「円筒、球、円錐で自然を表現したい」

と語り、木の幹を円柱、りんごやオレンジを球として捉える視点を持っていました。

彼は「知覚の真理」を把握することを目指し、複数の視点からの美術的表現を探求しました。これは後にキュビズムに影響を与える重要な思想となりました。

セザンヌは生涯を通じて、世界を最も正確に表現する方法を模索し続けました。

彼は単純な形態と平面的な色合いで絵画を構成するスタイルを確立し、「印象派をしっかりとしたものとして、美術館にふさわしい芸術にしたい」という強い意志を持っていました。

「ニコラ・プッサンを再構成している」というセザンヌの言葉は、古典主義的な構成の普遍性と印象派的色彩を自然観察を通して結びつけようとする彼の試みを表しています。

 

独自の技法

セザンヌの絵画は繰り返し用いられる試験的なブラシストロークが特徴で、これは視覚的にはっきりと認識できます。

彼の手法は長い時間と試行錯誤を要するものでした。

《サント=ヴィクトワール山》(1887年)では、画面中央に位置する山は、前景の松の木によって包み込まれ、古典主義的な安定した画面構成を形成されています。

空間の奥行きや対象物の立体感は、伝統的な遠近法や陰影法を用いず、色調の微妙な変化と小さな色面の並置によって表現。

塗り残した部分も作品の一部として組み込まれており、従来の西洋絵画の完成形から逸脱しています。

 

5. リンゴでパリを驚かせる

《りんごのバスケット》1893年

 

ここからは、彼の静物画に焦点を当ててその技法を詳しくみていきましょう。

セザンヌの静物画とリンゴ

セザンヌにとって、リンゴは単なる果物ではありませんでした。

彼は「リンゴでパリを驚かせる」という言葉を残し、実際にその言葉通り、彼のリンゴの絵は世界中で高く評価されています。

リンゴを通じて、セザンヌは色彩と形の関係を深く探求しました。

 

セザンヌの絵画を鑑賞する際には、ただ近づいてみたり離れてみたりするだけでなく、ぜひ斜めから見るという視点の変化も試してみてください。

彼の作品には空間の歪みがあり、テーブルの上に立つリンゴの右と左の形が異なって歪んでいるのが分かります。

セザンヌは、あえて意図的に空間の歪みを描きました。そして、その絵を斜めから見ると、歪んで見えたリンゴが正しい形に見えるという驚きの体験できます。

視点を変えることで異なる奥行きが現れるように描くことで、見る者は絵画の周辺を動き回り、さまざまな角度から新たな発見をすることができるのです。

 

色彩と深さの表現

また、セザンヌは色彩を使って、空間の深さを表現しています。

彼の理論では、赤は手前に、青は奥に、黄色はその中間に位置しており、これにより彼の絵画は立体的で深みのある空間を持っています。

例えば、彼の静物画を白黒にして見てみると、果物と壁の距離感が近づいて感じられ、また色が加えると、空間に再び深みが生まれるのが分かります。

このようにセザンヌは、色彩によって絵画における深みを追求しました。それは、物理的な空間だけでなく、見る者の感情や経験をも含む深みです。

 

セザンヌの芸術哲学

セザンヌは、伝統的な一点透視法にとらわれず、色彩を使って新たな遠近法を創り出しました。上述のとおり、絵画は単なる平面ではなく、見る者に空間を感じさせる立体的な作品に変わります。

彼はその技法は、絵画の見方に明らかに革命をもたらしました。作品を通じて、私たちは普段気づかない世界の深さや美しさに気づくことができます。

セザンヌの芸術は、単なる視覚的な楽しみを超え、私たちの認識や感受性を豊かにしてくれる力を持っています。

 

6. セザンヌの主題と作品群

《カード遊びをする人々》1892–93年

 

ここからは、もう少しセザンヌの作品をみていきましょう。

セザンヌは静物画、肖像画、風景画、水浴の習作といった様々な主題に焦点を当て、これらのカテゴリーに属する作品を均等に高い技術で描きました。

ただし、田舎でのヌードモデルの不足は彼に想像力を駆使することを強いました。

セザンヌの作品は、対象が人物であれ風景であれ静物であれ、基本的に同じアプローチで描かれており、単一の視点からの現実を捉えるのではなく、複数の視点からのモチーフを組み合わせ、色と形を調整して一つの造形作品として再構築しています。

この《カード遊びをする人々》は、セザンヌ晩年に描かれた5枚のうちの1枚ですが、2011年にカタール王室に約3億ドルで購入されています。

 

肖像画における親近感

彼の肖像画は親しい人々、例えば妻や息子、地元の農民や子どもたち、画商などを主題としてよく描かれました。

パリ・サロンのシーズンが始まる3月には、彼はパリに出向き、アパートを借り、ムランやポントワーズなど近郊の町に滞在しました。

また、パリ訪問時には友人ゾラのメダンにある別荘に招待されることもしばしばありました。

セザンヌの静物画は一見すると装飾的であり、厚く平らな表面が特徴です。これはギュスターヴ・クールベの作品を彷彿とさせる重厚さを持っています。

 

7. セザンヌの晩年

《水浴図》1890-94年

 

1890年代に入ると、セザンヌの作品は徐々に世間に知られるようになり、ブリュッセルの「20人展」やパリのアンデパンダン展など、様々な展覧会に出品されました。

1895年11月、画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊でセザンヌの初の個展が開催されました。この個展の開催を提案したのはピサロでした。

しかし、一般市民の認知度と商業的成功が高まる中、セザンヌ自身は芸術的に孤立した作品を制作し続け、フランス南部のプロヴァンスでの制作を好みました。

 

若い世代との交流

晩年にはエミール・ベルナールやモーリス・ドニといった若い世代の画家たちとの交流があり、彼らはセザンヌの作品を理解し評価しました。

1906年10月15日、野外での制作中に大雨に見舞われ、体調を崩しました。その後、肺充血を併発し、10月23日の朝7時頃に自宅で亡くなりました。翌日、エクスのサン・ソヴール大聖堂で葬儀が執り行われました。

セザンヌの死後、彼の作品は世界中で高く評価され、彼の革新的なスタイルと芸術への貢献は今日でも讃えられています。

 

以上、後期印象派の巨匠、また近代美術への道を切り開いた画家として、美術史にその名を刻んだポール・セザンヌについて解説しました!

 

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