《ナンバー31, 1950》出典:https://www.musey.net/
キャンバスを縦横無尽に飛び跳ねる絵の具。似た作品を一度は見たことある方も多いと思いますが、作者が誰か分かりますか?
作者の名は、ジャクソン・ポロック。キャンバスを床に置いて絵具缶から直接滴らせる「ドリッピング」と、垂らす「ポアリング」という技法により描かれる“アクション・ペインティング”と呼ばれる作風で世界的に知られる画家です。
35歳で作風を確立したポロックですが、実はアルコール中毒で44歳の時に飲酒運転による事故死をしたことはあまり知られていません。この記事では、ポロックの生い立ちやアクション・ペインティングに隠された製作背景などを解説していきます。これを読めば、私にも描けそう!などと口にできなくなるはずです。
1. ジャクソン・ポロックの生い立ち
ジャクソン・ポロックは、1912年アメリカ・ワイオミング州で生まれ。過去に芸術家を志していた母の影響でフロイトやストラヴィンスキー、ダダなどの前衛芸術に幼少期から触れていました。1928年からロサンゼルスにあるマニュアル・アーツ・ハイスクールで絵画を学んだのち、1930年にはニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグで壁画家であるトーマス・ハート・ベントンに師事。
1935〜40年にはWPA(公共事業促進局)でメキシコ壁画運動のダビッド・アルファロ・シケイロスらの助手として働き、絵筆のみならずスプレーガンやエアブラシで描く彼らの制作方法に衝撃を受けます。
1930年代、社会的に無意識理論への関心が高まっていく中、精神科医であり心理学者のカール・ユングは、ポロックをはじめとする抽象表現主義の画家に強い影響を与えました。
ポロックはユングの影響を受け、“無意識によって生み出される芸術”の意味を追求し、それを独自の表現技法「ポアリング」へと昇華させました。床の上に置かれた巨大なキャンバスのまわりを巡り、時には中に足を踏み入れながら、棒やコテを使ったり、塗料缶に空けた穴から流動性の強い絵具類を撒(ま)き注いだり、滴らしたりする制作の様子は、ハンス・ネイムスが撮影した写真と映画で広く知られるところとなります。
ポロックは表現技法について、以下のように語っています。
床の上では、私はより気楽でいられる。より絵に近くに、より絵の一部であるように感じられるのである。なぜなら、このようにすれば、その回りを歩き、四方から制作して、文字通り絵の中にいられるからだ。これは西部のインディアンの砂絵師の方法に似ている。
絵の中にいる時、私は自分が何をしているのか気づいていない。一種の「馴染む」時期を経て初めて、自分がしてきたことを理解する。
ーー「マイ・ペインティング」1947年より
油絵具のみならずエナメルやアルミニウム塗料まで用いるこうした技法は、1952年のハロルド·ローゼンバーグの論文「アメリカのアクション·ペインターズ」をきっかけに「アクション・ペインティング」という呼称で知れ渡りますが、ポロックはキャンバス=闘技場の上で飛びはねる、単なる「アクション」の人ではありませんでした。
ポロックの生涯については、2000年に『ポロック 2人だけのアトリエ』というタイトルで映画化されています。興味がある方は、こちらもチェックしてみてください!
2. ピカソやシュルレアリスムからの影響
ポロックは様々な作家たちの作品に触れ、その技法を意識的に採り入れながら、独自性を生み出した画家です。メキシコの壁画作家たちからも大きな影響を受けましたが、最も彼に衝撃を与えたのは、反戦をテーマとしたピカソの作品「ゲルニカ」でした。ヨーロッパの前衛芸術、とりわけピカソからの影響が絶大です。
その影響は、30年代の終わりにユング派の医師に与えた、のちに「精神分析用ドローイング」として明らかになる83個のイメージ群に見て取れます。また、「ちくしょう、すべてピカソにやられてしまった!」と語るほど、ピカソに対して劣等感を感じ、ピカソを超えられる独自の技法を編み出すべく葛藤する日々を送ったのでした。
第二次世界大戦時、多くのヨーロッパのアーティストが亡命でアメリカに渡ってきました。ニューヨークにはマックス・エルンスト、アンドレ・マッソンなどのシュルレアリストがやってきたことで、アメリカの芸術家たちを刺激しました。
ポロックは彼らからの影響も大きく、中でもマッソンの20年代、30年代のオートマティスム(自動記述法)的な線描作品に注目していた可能性は高く、《魚の戦い》(1926)のような砂絵とオートマティスムの組み合わせに刺激を受けています。
缶に流動性の絵具を満たし、底に穴を空けて振りまわして線状の軌跡によって画面を構成する、エルンストが渡米後に開発した「オシレーション」の技法、地面に触れずに砂を撒いて形象を浮かび上がらせるアメリカ·インディアン的技法も、オートマティスム的なありようを示すものとして、ポロックに受け取められました。
第二次大戦を機にアメリカに亡命移住したシュルレアリストたちについて、「芸術の源泉は無意識にあるという彼らの考えに感銘を受けた」とポロックは語っていますが、この“無意識”とは、人類の起源にある集合的無意識がオートマティスムを通して解放されるという意味と捉えられます。
ポロックのドローイングの実践は、己れの無意識なるものを見据え、意識化することの彼なりの方法的試行。「私は偶然を否定する」という無意識とは一見矛盾する言葉も、そうした意識のありようを示しています。
3. ドリッピングとオールオーヴァー、事故死
ポロックがアートコレクターの大富豪ペギー·グッゲンハイムと契約し、彼女の「今世紀の美術」画廊で初の個展を開いたのは1943年。これを機に、彼の才能を確信した批評家のクレメント·グリーンバーグの援護も受けるようになります。
ポロックがイーゼルを用いずにキャンバスを床に寝かせ、独自のオートマティスムとも言うべきドリッピングやポーリングを初めて試みたのが、1946年末〜1947年初頭。構図上の中心を持たないオールオーヴァーな画面が1951年まで制作されました。《五尋の深み》(1947)、《秋のリズム:ナンバー30、1950》、《ラベンダー·ミスト:ナンバー1、1950》といった繊細で美しい作品が数多く生み出されるのはこの数年間のことで、ポロックを有名画家へと押し上げました。
1937年、25歳のころからアルコール中毒であったポロックは、ユング派の医師の治療を受けていました。アクション・ペインティングを使って意欲的に作品を制作しながら一時期は断酒をしていたものの、ドキュメンタリー映画の撮影を受けて再び飲酒生活に戻ってしまいます。
1951年末には従来の画法により、姿を隠していた形象性が黒い姿をとって再び現われ出たような一連の作品を発表しますが、すぐにまたオールオーヴァーな画面に回帰。そんな精神の不安定さと、ますますひどくなるアルコール中毒と戦いながら、何点かの作品が制作されますが、1956年8月11日に飲酒運転で事故死してしまいます。
その後のアメリカのアート群の直接間接の起点とも言うべき抽象表現主義の主導的存在は、こうして44年7か月余の生涯を閉じたのでした。
ピカソを超えたいという思いを胸に、シュルレアリスムのオートマティスムへの関心から新たな技法を確立させ、戦後の美術界において抽象表現主義を牽引してきたポロック。彼の作品は今なお多くの人を魅了し続けています。