音楽を奏でる絵画、抽象表現主義の先駆者ワシリー・カンディンスキーを解説!

アート・デザインの豆知識

《交差する線(1923年)》

“絵画で音楽を奏でられる”としたら、どう思いますか?

そんなこと、できるわけないと思うかもしれませんが、無謀にもそれに挑んだアーティストがいます。彼の名は、ワシリー・カンディンスキー。共産主義が台頭した20世紀前半のロシアに生まれ、時代に翻弄されながらも、独自の表現を追求した、抽象表現主義を代表する作家の1人です。

この記事では、カンディンスキーの生い立ちや作品、時代背景についてざっくり解説していきます。彼の作品に少しでも興味のある方は、ぜひ読み進めてみてください!

 

1. 教師から絵画の道へ

Wassily Kandinsky. (Photo by Fine Art Images/Heritage Images/Getty Images)

 

ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)は1866年、ロシアの首都モスクワ生まれ(-1944年)。父が紅茶商人をしていた裕福な家庭で育ち、両親ともに楽器を演奏する文化的な一家であり、彼も子どもの頃から音楽に親しんでいました。

のちにカンディンスキーは、幼少期から色彩に特に興味があったと話しており、彼が最初に覚えた色彩は、白、黒、黄土色のほかに洋紅色、青々と明るい緑だと話しています。色彩に関する象徴性と心理学は、大人になってからも変わらず彼を魅了し続けました。

その後、グレコフ・オデッサ美術大学に入学しますが、卒業後は一旦美術から離れ、モスクワ大学に改めて入学。そこでは法律と経済を学び、それを活かしてタルトゥ大学でローマ法に関する教授職に就きます。

 

民族学からの影響

1889年、カンディンスキーは23歳の時に民族学を研究グループに参加し、モスクワ北部のヴォログダという町を調査しています。旅行中にはロシア農民の文化を調査し、色鮮やかに装飾された建物や家具、民族衣装に感銘を受けたそうです。

この旅行をきっかけに、その後バロック様式の礼拝堂・教会に入るときには、いつも絵画の中にいるような感じを覚えたそうです。その感覚は、《Looks on the Past》という作品に表現され、この時の経験や地方の民族芸術の研究は、初期作品の多くに影響が見られます。

1892年、カンディンスキーは法律の国家試験をパスして、モスクワ大学での教職資格を得ますが、教職に就きながらも芸術的な感性も養っていました。そして、30歳で学者のキャリアを捨て、芸術の道に進むことを選び、本格的に学び始めたのでした。

 

2. ミュンヘン時代と独自の絵画表現

《積みわら》クロード・モネ

 

モネの「積みわら」との出会い

1896年、カンディンスキーはミュンヘンに拠点を移しますが、モスクワから引っ越す前に訪れたモネの展覧会で《積みわら》を見て、印象派から影響を受けます。

この作品と対峙したカンディンスキーは感動しつつも、それが何を描いているのか理解できなかったそうです。これをきっかけに、“絵画は具体的に何を描いたか分からなくても、純粋な色や形態で成立するのだ”と確信します。

ミュンヘンではまず、アントン・アッベ絵画学校という所で印象派の表現技法を学び、さらにミュンヘン美術院に移って芸術を学んでいます。またこの頃からカンディンスキーは、画家であると同時に理論家としても頭角を出し始めます。

 

純粋芸術としての音楽

《青騎士(1903年)》

音楽は絵画と違い、具体的に何かを模したり再現するのではなく、音の連鎖のみで感動させることができる。そう気づいたカンディンスキーは、音楽を色彩を通じて再現できると考え、1910年出版の初めての理論書『芸術における精神的なもの』において、「色はキーボードで、目はハンマー、精神は多くの弦からなるピアノだ」と述べています。

彼の形態と色彩に関する分析は、画家自身の内面的な表現であり、科学的で客観的観察に基づいたものではありません。主観的で経験的な表現からくるものでした。この頃の理論を基に、多くの作品を残しています。

そのうちの重要な作品として、《青騎士(1903)》があります。緑の草原に覆われた丘陵を、白馬に乗った青いマントの男が猛スピードで駆ける作品で、その前景には青黒い影が広がり、背景には秋の木々が影を落としています。

 

フォービスムからの影響

《青い山(1908-1909年)》

また、初期の作風には、1906年から1907年にかけてのパリ旅行も影響していると言われています。《青い山(1908-1909)》は、カンディンスキーが抽象表現をはじめるきっかけとなった作品です。黄色と赤色の2つの大きな木が隣接した画面の下には、3人の騎手と数人の歩行者が列を成して進んでいます。騎手の服装やサドルは単色で、人々は具体的には描かれていない。フラットな平野と輪郭の描き方は、フォービスムから影響が感じられます。

フランスをはじめとした欧州旅行にかなりの時間を費やした後、カンディンスキーはバイエルン地方にあるムルナウという小さな町に移住します。1908年、「思いは生きている」という本を購入し、1909年に神智学協会に参加。オカルトやスピリチュアリティにも、関心を持ち始めます。これをきっかけに、彼の作品は神秘的・包括的な世界観や、神智学からの影響も受け始めます。

 

3. 青騎士時代

《Composition 6(1913年)》

 

1909年、カンディンスキーは表現主義集団の「ミュンヘン新芸術家協会」を設立、初代理事を務めます。しかし、グループは彼の既成概念を壊す急進的な思想と噛み合わずに、1911年に解散。同じ年に、アウグスト・マッケらと「青騎士」という芸術グループを再び結成し、ドイツの前衛芸術運動で活躍しはじめます。

青騎士は機関誌「年鑑青騎士」を発行し、狭義の芸術だけでなく、デザイン、宗教芸術、音楽、詩、劇など、幅広い芸術に対する姿勢を明らかにし、作品を紹介しました。

さらに、新しい表現手段を探求し、ロシアやフランス、イタリアからの寄稿も掲載。青騎士はのびのびとした芸術家たちの集まりとして、彼が原因で解散することはありませんでしたが、第一次世界大戦の影響で活動が停止しています。

「年鑑青騎士」

 

時を同じく、1911年にカンディンスキーは論考「芸術におけるスピリチュアル」を発表しますが、これは美術理論家としての代表作。その中では、絵画における色彩は形態の視覚から離れ、色そのものが自律的になると述べています。さらにそれを基に、目に見えるものを、直接人間の内面生活に結びつけようと試みました。

そのためには、抽象性が大事ではなく、絵画的手法を感情的・精神的に内なる衝動と調和させることが大切と考えます。これにより、物質社会の誤った価値観から、人々が精神的世界に目覚めるのを助けるだろうと主張します。

カンディンスキーは現実に存在する表層の代わりに、色彩の“響き”によって精神的な表現を伝えることを思い描いたのです。この「純粋芸術」の思想は国際的、特に英語圏において大変な衝撃を与えました。

1912年に発表した『芸術とスピリチュアル』は、ロンドンの芸術誌『Art News』で取り上げられ、1914年に英語版が翻訳出版されると、カンディンスキーへの国際的な注目はどんどん高くなっていきました。1910年〜1913年に制作された「コンポジション」シリーズは彼の代表的な精神表現として有名です。

 

4. ロシアへの帰還とバウハウス

《コンポジション8(1923年)》

 

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、カンディンスキーはロシアへ帰ります。モスクワでは、当時の指導者ウラジーミル・レーニンによって前衛芸術は“革命的”と認められ、1918年〜1921年まで彼は政治委員などを務めます。

またこの時代、形態や色彩の分析を基づいた芸術教育に多大な時間を費やしていたため、制作はほとんどできませんでした。

しかし、ロシアへの貢献も虚しく、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ、モスクワ共産主義の中で抽象芸術は疎んじられるように。そうした背景から、スターリンが共産党書記長に就くと、1921年に建築家のヴァルター・グロピウスワイマールが設立したバウハウス美術学校に招待されたことをきっかけに、そこで教官になることを選びます。

ドイツへ戻った翌年の1922年から、ナチス政権により閉鎖される1933年まで、バウハウスで教鞭をとりました。

 

《黄・赤・青(1925年)》

バウハウスでは、初心者に対する基礎から高度な芸術理論まで、幅広く授業を受け持ち、絵画教室やワークショップなども行いました。色彩の授業では、ゲーテを引用した黄と青の対照性を強調する原理を用い、神智学やオカルトの研究を融合させ、そこからゲシュタルト心理学要素のある独自の色彩理論へと発展させています。

特に点と線に関する研究では、重要な理論書『点と線から面へ(1926年)』に結実しています。この著書は「序論」から始まり「点」「線」「地−平面」の3章から成るもの。この章構成からも、彼が幾何学的を重視していたことがよく分かります。

この時代は、カンディンスキーにとっての「コンポジションの時代」、「円の時代」と呼ばれ、《コンポジション8(1923)》や、《黄・赤・青(1925)》といった作品を残しています。

これらの作品は、いくつかの主要な形態で構成されており、波状の線、黒の直線、大きな青黒い円、黄色の長方形、斜めの赤十字などが散在。初期の作品と比べて、繊細で複雑な色と形態で表現されています。

1925年、バウハウスは右翼政党から攻撃され、ワイマールからデッサウへ移転しますが、さらにナチスからの中傷攻撃が始まると、1932年にじゃデッサウからベルリンに移転。1933年に閉鎖されると、カンディンスキーはドイツを後にし、フランス・パリへ移住します。

 

5. パリ時代と抽象表現主義者としての生涯

《多彩なアンサンブル(1938年)》

 

当時のパリ芸術界は抽象表現を認めない傾向にあったため、カンディンスキーに対しての態度は冷ややかでした。そのため、彼はパリのアパートで隠遁生活をしながら、リビングをスタジオにして作品制作を続けます。

そこでの慎ましい生活は、彼の表現に変化をもたらしました。有機的でしなやかな形態や、それまでにはない色彩の組み合わせが作品に表れるようになったのです。一見すると微生物を表現しているようにみえるそれらの作品は、彼の内面と人生を表現しています。

この頃の作品は、のびのびとした生命力を獲得したように感じられます。第二次世界大戦前の大作《コンポジションⅩ》においては、神秘的で夢想的な世界を創造しています。

作品とは対照的に、1940年にフランスはナチス・ドイツに占領され、カンディンスキーは作品の発表を禁止されます。こうした不遇のまま1944年、パリで最後の展覧会が開催し、その年の12月に動脈硬化でカンディンスキーは77歳の生涯を閉じました。

 

《Composition X(1939年)》

1912年、カンディンスキーは著書『芸術における精神的なもの』の中で、絵画における“3つの型”「印象、即興、構成」を定義しています。その中で彼は人間の精神世界と山を比較し、芸術家には作品を通して人々を精神的な山の頂点へと導く使命があり、それができるのは限られた芸術家だけだと言いました。

また、退廃した時代においては、人々の魂はピラミッドのような精神の山の底に沈み、現実や外観での成功のみ求めるようになる。色彩の美しさに魅了されている人の目は、美味しいものを食べるときの喜びと同じような感覚があり、色が内面に直接働きかける「内部共鳴」を起こした時、より深いものとなると述べています。

抽象表現主義のパイオニアとして、美術史に多大な功績を残したワシリー・カンディンスキー。幼少期から音楽に親しんだ経験が、カンディンスキーの鋭敏な色彩感覚や、大胆でありながら緻密な画面構成を育くみ、音楽をひとつの着想源にした複数の理論書を残しました。

彼の作品は、東京国立近代美術館をはじめ国内の美術館に収蔵されています。彼がどのような時代背景で何を考えながら作品を制作したか、想像しながら鑑賞してみてはいかがでしょうか。

 

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